ダイガクコトハジメ - 大学校(大学)・文部省 - 創立者・教育者 - 田中不二麿
大学校(大学)・文部省
田中不二麿
たなかふじまろ
1845(弘化2)年6月12日/7月16日 - 1909(明治42)年2月1日
1845(弘化2)年6月12日/7月16日
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田中不二麿、尾張国名古屋城下に尾張藩士の子として生まれる。
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田中不二麿、尾張藩校「明倫堂」で和漢古典を学ぶ。勤皇思想に心酔。成績優秀につき、尾張藩参与に取り立てられる。
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田中不二麿、幕末動乱期、佐幕か尊王攘夷かで尾張藩も意見が二分。徳川御三家という藩情に関わらず、尊王攘夷派「金鉄組」に属し、尊皇攘夷の大道を説き続ける。丹羽賢、中村修らと共に、尊皇攘夷建白書を家老ほか藩内要職者に提出。京に足を運び、尊皇攘夷論者と頻繁に接触。
1867(慶応3)年12月9日/1月3日
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田中不二麿(21-22歳)、王政復古の大号令を受け、新政府の参与に。小御所会議に尾張藩代表として出席。
1868(慶応4)年1月20日-25日
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田中不二麿(22歳)、尾張藩の佐幕派弾圧事件「青松葉事件」以後、実権を握る徳川慶勝の右腕となり藩論の統一に尽力。藩内外にその名を知られるようになる。
1868(慶応4)年1月
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田中不二麿(22歳)、官軍に徴士。
1869(明治2)年
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田中不二麿(23-24歳)、「大学」御用掛を拝命。教育行政に携わるように。
1870(明治3)年
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田中不二麿(24-25歳)、阿波国で稲田騒動勃発。特命を受けて現地に急行。関係者聴取の上、短日月内に報告書を上程、迅速な騒動鎮定に寄与。
1871(明治4)年10月
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田中不二麿(26歳)、文部大丞に。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
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田中不二麿(26-28歳)、岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。
1872(明治5)年8月2日/9月4日公布
学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
1873(明治6)年11月 - 1874(明治7)年3月13日
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文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレー、日本も欧米諸国に倣い、女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することを建言。文部少輔・田中不二麿も同調。翌1874(明治7年)年1月、三条実美太政大臣へ「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出。これが承認される。同年3月13日、木戸孝允文部卿により、お茶ノ水橋袂に「女子師範学校」を設置する旨、布達発令。
1874(明治7)年
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田中不二麿(28-29歳)、文部大輔に。
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田中不二麿、外務卿・陸奥宗光と共に、観測のため来日したメキシコ天文観測隊を歓待、近代日墨国交の端緒を開く。
1876(明治9)年
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田中不二麿(30-31歳)、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。
1877(明治10)年
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田中不二麿(31-32歳)、文部省にて学制改正のための委員設置、着手。
1878年(明治11)年10月25日
1879(明治12)年
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田中不二麿(33-34歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減した。
1879(明治12)年9月29日公布
教育令、学制に代わり公布。欧米の教育制度を模範に定められた学制は、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学校運営に要する地方の経済的な負担も大きく、これら事情に考慮する改正が成される。
1879(明治12)年
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田中不二麿(33-34歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。
1880(明治13)年
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田中不二麿(34-35歳)、未就学児増加ならびに学力低下を招いたとして政府内で批判が強まり、司法卿に配置換えに。以後、教育行政から遠ざかる。
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田中不二麿、参事院議官に。
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田中不二麿、駐イタリア公使に。
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田中不二麿、駐フランス公使に。
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田中不二麿、枢密顧問官に。
1891(明治24)年
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田中不二麿(45-46歳)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」と伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け、第1次松方内閣の司法大臣に。
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田中不二麿、位階正二位、子爵に叙せられる。
1896(明治29)年11月12日
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田中不二麿(50歳)、改正条約発効の準備のため、改正条約施行準備委員会副委員長に。
1909(明治42)年2月1日
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田中不二麿(65歳)、死去。享年、65歳。
