体操伝習所

 

坪井玄道

つぼいげんどう

1852(嘉永5)年1月9日/1月29日 - 1922(大正11)年11月2日

1852(嘉永5)年1月9日/1月29日

  • 坪井玄道、下総国葛飾郡鬼越(現在の千葉県市川市)に農家の次男として生まれる。幼名、仁助。

1866(慶応2)年

  • 坪井玄道(14歳)、「開成所」入学。英語を学ぶ。

1871(明治4)年

1874(明治7)年

  • 坪井玄道(22歳)、アメリカから迎えた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当。体操の重要性を認識、体育学を学ぶ。

1878(明治11)年10月25日

  • 坪井玄道(26歳)、リーランドと共に、「体操伝習所」教師となる。

1881(明治14)年7月2日

  • 坪井玄道(29歳)、リーランドが辞任。公認として、「体操伝習所」主任教員に。

1882(明治15)年

  • 坪井玄道(30歳)、リーランドの指導した運動法と自身の体育論を解説した『新撰体操書』出版。

1885(明治18)年12月

1885(明治18)年

  • 坪井玄道(33歳)、『戸外遊戯法』出版。日本語で書かれた初めての端艇(ボート)競技の教科書となる。また、フートボールを初めて日本に紹介。

1887(明治20)年

  • 坪井玄道(35歳)、『普通体操法』出版。合理主義的軽体操 (普通体操) と自然主義的遊戯を併せた体育論を唱え、学校の必修科目に体操を加えることの必要性を論じる。

1890(明治23)年

1896(明治29)年

1900(明治33)年 - 1901(明治34)年

  • 坪井玄道(48-49歳)、黒田清輝や瀧廉太郎らと共に、イギリスなどへ留学。

1903(明治36)年

  • 坪井玄道(51歳)、教え子の中村覚之助らが出版した『アッソシエーション・フットボール』に序文を寄稿。

1909(明治42)年

  • 坪井玄道(57歳)、可児徳と共に、日本に初めてドッジボール競技を「円形デッドボール」という名で紹介。

1909(明治42)年

1922(大正11)年4月

  • 坪井玄道(70歳)、「東京女子体操音楽学校」名誉校長に。

1922(大正11)年11月2日

  • 坪井玄道(70歳)、死去。享年、70歳。