ダイガクコトハジメ - 体操伝習所
体操伝習所
創立 : 1878(明治11)年10月25日
前史 :
体操伝習所 → 高等師範学校体育専修科 → 高等師範学校体育科 → 東京教育大学体育学部
「体操伝習所」年表
1874(明治7)年
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坪井玄道(22歳)、アメリカから迎えた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当。体操の重要性を認識、体育学を学ぶ。
1878(明治11)年10月25日
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学制・教育令の中で、小学校・専門学校の教育科目に「体術」・「体操」が規定されたが、具体的な教授法が確立されていなかった。「東京師範学校」も知的教科を中心とする知育に偏重、体育教員の養成が後手にまわっていた。そこで、アメリカ・アマースト大学卒業の医学士リーランドが体育担当教師として招聘され、文部省により日本最初の体育研究・教育機関「体操伝習所」創立。
1878年(明治11)年10月25日
1878(明治11)年
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坪井玄道(26歳)、リーランドと共に、「体操伝習所」教師となる。
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欧米人に比べて小柄な日本人にとって適当な体操法として「軽体操」(木唖鈴・球竿・棍棒・木環などの軽手具を使用した体操)が採用され、全国的普及が進められる。
1881(明治14)年7月2日
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坪井玄道(29歳)、リーランドが辞任。公認として、「体操伝習所」主任教員に。
1882(明治15)年
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坪井玄道(30歳)、リーランドの指導した運動法と自身の体育論を解説した『新撰体操書』出版。
1885(明治18)年12月
1885(明治18)年
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坪井玄道(33歳)、『戸外遊戯法』出版。日本語で書かれた初めての端艇(ボート)競技の教科書となる。また、フートボールを初めて日本に紹介。
1886(明治19)年4月29日
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「東京師範学校」の「高等師範学校」昇格に伴い、「体操伝習所」廃止。「高等師範学校体育専修科」となる。
1949(昭和24)年
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「東京教育大学」発足と共に、「東京高等師範学校体育科」は「東京教育大学体育学部」に。「筑波大学体育専門学群」の源流となる。