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足利学校

 

足利義兼

あしかがよしかね

1154(久寿元)年? - 1199(正治元)年3月8日/4月5日

1154(久寿元)年?

  • 足利義兼、源姓足利氏二代目として足利義康の子に生まれる。

  • 足利義兼、幼い頃に父・足利義康を亡くす。伯父・源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる。

1180(治承4)年

  • 足利義兼(25-26歳)、血縁的に近い源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵。河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、比較的早い時期から源頼朝に従軍。

1184(元暦元)年

  • 足利義兼(29-30歳)、木曽義仲の遺児・義高残党の討伐において戦功を挙げる。後に源頼朝の弟・源範頼に属して平氏を追討した功績により、源頼朝の知行国であった上総国の国司(上総介)に推挙される。

1185(文治元)年

  • 足利義兼(30-31歳)、源頼朝の門葉として幕府において高い席次を与えられた。源頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれた。

1189(文治5)年

  • 足利義兼(34-35歳)、奥州合戦に従軍。

1190(建久元)年

  • 足利義兼(35-36歳)、出羽国で奥州藤原氏の残党が挙兵(大河兼任の乱)、追討使としてこれを平定。

1195(建久6)年3月

  • 足利義兼(40-41歳)、東大寺にて出家、義称と称する。源頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったといわれている。

1196(建久7)年

  • 足利義兼(41-42歳)、邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのを始まりに、鑁阿寺をひらく。

1199(正治元)年3月8日/4月5日

  • 足利義兼(44-45歳)、出家後は下野国足利荘の樺崎寺に隠棲。同寺にて死去。

足利義兼
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