ダイガクコトハジメ - 東京盲唖学校
東京盲唖学校
創立 : 1876(明治9)年
創立者 : 古川正雄、津田仙、中村正直、岸田吟香、ボルシャルト、ヘンリー・フォールズ、前島密、小松彰、杉浦譲、山尾庸三
前史 :
楽善会訓盲院 → 訓盲唖院 → 東京盲唖学校 → 東京聾唖学校 → 盲唖分離が実現、東京盲学校・東京聾唖学校に → 東京教育大学の付属学校となり、東京教育大学教育学部特設教員養成部、東京教育大学附属盲学校、東京教育大学附属聾学校に
「東京盲唖学校」年表
1871(明治4)年
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山尾庸三(32-33歳)、盲学校、聾学校の設置を主張する建白書を表す。障害者教育に熱心に取り組む。
1875(明治8)年5月
1876(明治9)年
1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月
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伊沢修二(23-26歳)、文部省の「師範学校」教育調査のため、神津専三郎、高嶺秀夫と共にアメリカ留学。「マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校」で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。「ハーバード大学」で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。
1880(明治13)年
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「楽善会訓盲院」、授業開始。
1884(明治17)年
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「楽善会訓盲院」、盲人だけでなく聾唖者の教育も行おうという観点より、「訓盲唖院」と改称。
1886(明治19)年
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「訓盲唖院」、楽善会より文部省に移管され、官立の盲教育・聾唖教育機関に。
1888(明治21)年
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伊沢修二(36-37歳)、文部省直轄の「訓盲唖院」を改称して設立された「東京盲唖学校」の初代校長に。
1890(明治23)年
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「東京盲唖学校」、校舎を小石川区指ヶ谷町に移転。
1909(明治42)年 - 1910(明治43)年
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盲唖分離が実現、「東京盲学校」設立。翌年、「東京盲唖学校」は「東京聾唖学校」と改称。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
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学制改革にて、国立の学校数を減らすことが意図される。「東京盲学校」と「東京聾唖学校」は「東京教育大学」の附属学校の1つに。「東京教育大学教育学部特設教員養成部」・「東京教育大学附属盲学校」・「東京教育大学附属聾学校」に。
1978(昭和53)年