東京藝術大学
横山秀麿(横山大観)
よこやまひでまろ(よこやまたいかん)
1868(明治元)年9月18日/11月2日 - 1958(昭和33)年2月26日
1868(明治元)年9月18日/11月2日
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横山大観、常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。父・酒井捨彦は、「水戸学」の尊皇攘夷思想により志士として活躍。
1881(明治14)年
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横山大観(12-13歳)、「東京府第一中學」卒業。優秀な成績で卒業するが、諸事情により「東大予備門試験」の入学資格を消失。「東京英語学校」に入学、英語を学ぶ。
1883(明治16)年
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横山大観(14-15歳)、絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。
1888(明治21)年
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横山大観(19-20歳)、母方の縁戚である横山家の養子に。
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横山大観、「東京美術学校」受験を決め、急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける。
1889(明治22)年
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横山大観(20-21歳)、「東京美術学校」受験の際、受験者数300人のうち200人が鉛筆画で受験、しかも有名な師に何年も教わってきたと聞き、試験直前に鉛筆画から毛筆画に変更。第1期生として合格。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生に下村観山、西郷孤月、第3期生に菱田春草など。
1893(明治26)年
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横山大観(24-25歳)、「東京美術学校」第1期生卒業。「京都市立美術工芸学校」予備科教員に。この頃より、雅号「大観」を使い始める。
1896(明治29)年
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横山大観(27-28歳)、「東京美術学校」は日本画ほか伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように。西洋画科・図案科、新設。図案化教官として助教授に。
1898(明治31)年
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横山大観、日本美術院において、菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ねる。「朦朧体」と呼ばれる、線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表。しかし、その先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びる。保守的風潮の強い日本での活動が行き詰まりを見せ始め、菱田春草と共に海外に渡る。
1903(明治36)
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横山大観(34-35歳)、岡倉天心の勧めで、インド訪問。釈迦の実像を描こうとする。
1904(明治37)
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横山大観(35-36歳)、岡倉天心の勧めで、アメリカ・ニューヨークへ。
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横山大観、インド・カルカッタ、アメリカ・ニューヨーク、ボストンにて、相次いで展覧会を開き、高い評価を得る。
1905(明治38)
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横山大観(36-37歳)、ロンドンへ。長女死去のため、帰国。
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横山大観、ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始める。
1906(明治39)年
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横山大観(37-38歳)、日本美術院の活動拠点であり、岡倉天心のアトリエがある茨城県五浦へ転居。日本美術院絵画部は、岡倉天心、菱田春草、下村観山、木村武山ら5名に。
1907(明治40)年
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横山大観(38-39歳)、国が主催となり、官営の文部省美術展覧会(文展)が開催される。審査員に。欧米外遊の経験より、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引。
1910(明治43)年
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横山大観(41-42歳)、中国へ。ロバを買って帰る。
1910(明治43)年
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横山大観(41-42歳)、第4回文展、審査員。作品『楚水の巻』。地球に接近したハレー彗星を題材に水墨画『彗星』を描く。
1912(明治45)年
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横山大観(43-44歳)、第6回文展。
1913(大正2)年
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横山大観(44-45歳)、第7回文展、最後の審査員。作品『松並木』。
1913(大正2)年9月2日
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横山大観(44歳)、生涯の師であった岡倉天心、逝去。門人代表として弔辞。
1913(大正2)年
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横山大観(44-45歳)、守旧派に押され活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山らと共に再興。日本画壇の重鎮として、確固たる地位を築く。
1934(昭和9)年
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横山大観(65-66歳)、朝日文化賞受賞。
1935(昭和10)年
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横山大観(66-67歳)、帝国美術院会員に。
1937(昭和12)年
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横山大観(68-69歳)、第1回文化勲章の受章者に。
1951(昭和26)年
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横山大観(82-83歳)、日本美術院会員を辞任。
1951(昭和26)年
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横山大観(82-83歳)、文化功労者に。
1958(昭和33)年2月26日
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横山大観(89歳)、死去。享年、89歳。永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られる。
