東京藝術大学
岡倉覚三(岡倉天心)
おかくらかくぞう(おかくらてんしん)
1863(文久2)年12月26日/2月14日 - 1913(大正2)年9月2日
1863(文久2)年12月26日/2月14日
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岡倉天心、横浜本町5丁目(現在の本町1丁目)に福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として生まれる。幼名、岡倉角蔵。福井藩は神奈川警備方を命じられ、海外貿易の盛隆を目の当たりにする。生糸を扱う貿易商店・石川屋を1860(安政7/万延元)年に開店、父・岡倉覚右衛門を赴任させる。
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岡倉天心、貿易商店・石川屋店を訪れる外国人客を通じ、幼少時より英語に慣れ親しむ。
1870(明治3)年
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岡倉天心(6-7歳)、ジェームス・ハミルトン・バラの英語塾に入学。
1870(明治3)年
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岡倉天心(6-7歳)、母を亡くす。
1871(明治4)年
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岡倉天心(7-8歳)、父の再婚をきっかけに、大谷家に養子に出される。里親とそりが合わず、神奈川宿の長延寺に預けられる。寺の住職から漢籍を学ぶ。
1871(明治4)年
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岡倉天心(7-8歳)、高島嘉右衛門(38-39歳)が私財3万円を投じ横浜伊勢山下と入船町に開校した洋学校「藍謝堂(高島学校)」入学。スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人や「慶応義塾」の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎、濱尾新、日原昌造ら高弟が講師に。寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨らも共に学ぶ。
1873(明治6)年
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岡倉天心(9-10歳)、廃藩置県により石川屋廃業。父・岡倉覚右衛門が蛎殻町で旅館を始める。一家で東京へ移住。
1873(明治6)年
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岡倉天心(9-10歳)、官立「東京外国語学校」入学。
1875(明治8)年
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岡倉天心(11-12歳)、「東京開成学校」入学。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことより、講師アーネスト・フェノロサの助手に。フェノロサの美術品収集を手伝う。
1880(明治13)年7月
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岡倉天心(17歳)、「東京大学文学部」卒業。
1880(明治13)年11月
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岡倉天心(17歳)、文部省入省。音楽取調掛に。
1881(明治14)年
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岡倉天心(17歳)、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査。
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岡倉天心、フェノロサと共に、パリ万国博覧会視察渡仏中に西洋美術や美術行政に触れたことをきっかけに美術分野に高い関心を持つようになった九鬼隆一と面識を持ち、美術研究の支援を受ける。支援により、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。
1882(明治15)年
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岡倉天心(18-19歳)、「専修学校」教師に。創立時の繁栄に貢献。
1886(明治19)年 - 1887(明治20)年
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岡倉天心(22-24歳)、文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的とする欧米調査旅行に。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。
1887(明治20)年
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岡倉天心(23-24歳)、ヨーロッパ視察を終え、フェノロサとアメリカに立ち寄り。九鬼隆一と再会。
1887(明治20)年10月
1887(明治20)年10月
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九鬼隆一(35歳)、帰国。宮内省図書頭に。臨時全国宝物取調掛を設置、自ら委員長となり、フェノロサや岡倉天心が委員を務め、文化財の調査・保護に当たる。
1889(明治22)年2月
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濱尾新(39歳)、「東京美術学校」開校。文部省図画取調掛委員長であったことより、校長事務取扱に。翌年1890(明治23)年、校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就任。教官に、黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之、後に川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを加える。ほとんどが日本画家などの伝統的美術家であり、日本伝統美術の振興を目指す理念が具体化された形になる。
1889(明治22)年
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岡倉天心(25-26歳)、高橋建三と共に美術雑誌『国華』創刊。
1889(明治22)年
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岡倉天心(25-26歳)、帝国博物館理事に。
1889(明治22)年12月
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岡倉天心(26歳)、大博覧会美術部審査官に。
1890(明治23)年
1891(明治24)年4月
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九鬼隆一(38歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令で、シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行なう、副総裁に。
1893(明治26)年
1893(明治26)年
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九鬼隆一(40-41歳)、シカゴ万国博覧会の日本展示は、岡倉天心の意向もあり、日本画を中心とした伝統的なものとなる。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を「東京美術学校」が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。
1897(明治30)年
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岡倉天心(33-34歳)、『日本帝国美術歴史』編纂主任に。
1898(明治31)年
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岡倉天心(34-35歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。「東京美術学校」での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長、「東京美術学校」校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦、西郷孤月、菱田春草、寺崎広業、横山大観、岡部覚弥、桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足。(美術学校騒動)
1901(明治34)年 - 1902(明治35)年
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岡倉天心(37-39歳)、インド訪遊。タゴール、ヴィヴェーカーナンダらと交流。
1902(明治35)年
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岡倉天心(38-39歳)、来日した日本美術の研究家・ビゲローと親交。
1904(明治37)年
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岡倉天心(40-41歳)、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられる。ボストン美術館の美術品を集めるため、日本とボストン市を往復。それ以外の期間は茨城県五浦のアトリエにいることが多く、表立った活動は少なくなる。
1905(明治38)年9月
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岡倉天心(42歳)、渡米。
1906(明治39)年
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岡倉天心(42-43歳)、日本美術院の拠点を茨城県五浦に移す。
1907(明治40)年
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岡倉天心(43-44歳)、ボストン美術館勤務のため3回目の渡米。
1907(明治40)年
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岡倉天心(43-44歳)、正五位勲六等に叙される。
1907(明治40)年8月
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岡倉天心(44歳)、美術審査委員会委員に。
1907(明治40)年10月
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岡倉天心(44歳)、文部省公設展覧会の出品締め切りに遅れた画家・高橋廣湖のため、会場の一部を私費で借りて展覧会を開催。
1910(明治43)年10月
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岡倉天心(46-47歳)、ボストン美術館理事長エドワード・ホームズの支援により、ボストン美術館に東洋部を設けることに。ヨーロッパの美術館東洋部の視察の後、ボストン美術館中国・日本美術部長に。
1911(明治44)年9月
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岡倉天心(47歳)、帰国。
1912(明治45)年
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岡倉天心(47-48歳)、文部省美術展覧会(文展)審査委員に。
1913(大正2)年9月2日
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岡倉天心(50歳)、死去。享年、50歳。門人代表として、横山大観が弔辞。
