top of page

東京藝術大学

 

伊沢修二

いさわしゅうじ

1851(嘉永4)年6月29日/7月27日 - 1917(大正6)年5月3日

1851(嘉永4)年6月29日/7月27日

  • 伊沢修二、信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士・井沢勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名、弥八。20俵2人扶持低禄の下級武士のため、極端な貧乏暮らしだった。

1861(文久元)年

  • 伊沢修二(9-10歳)、高遠藩校「進徳館」で学ぶ。

1867(慶応3)年

  • 伊沢修二(15-16歳)、江戸へ。ジョン万次郎に英語を学ぶ。

1869(明治2)年

  • 伊沢修二(17-18歳)、ジョン万次郎が欧米に出張、アメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスに英語を学ぶ。

  • 伊沢修二、京都遊学、蘭学を学ぶ。

  • 伊沢修二、高遠藩の貢進生として、「大学南校」入学。

1872(明治5)年

  • 伊沢修二(20-21歳)、文部省入省。後に工部省へ。

1874(明治7)年

  • 伊沢修二(22-23歳)、再び文部省に戻り、「愛知師範学校」校長に。

1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月

  • 伊沢修二(23-26歳)、文部省の「師範学校」教育調査のため、神津専三郎、高嶺秀夫と共にアメリカ留学。「マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校」で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。「ハーバード大学」で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。

  • 伊沢修二、渡米中、「ハーバード法律学校(現在のハーバード大学)」で学ぶ目賀田種太郎と出会う。日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと、共に研究。「東京音楽学校」創立に向け尽力。

​1878(明治11)年

  • 伊沢修二(26-27歳)、文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書を文部大臣に提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。

1878年(明治11)年10月25日

  • 伊沢修二(27歳)、田中不二麿と共に、文部省音楽取調掛と同様に体育の研究・教育のための実技科目教員を養成する「体操伝習所」創立。主幹に。

1879年(明治12)年3月

1879(明治12)年

  • 田中不二麿(33-34歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。

1880(明治13)年3月

  • 伊沢修二(28歳)、文部省音楽取調掛にて、日本内外音楽の調査をはじめ多くの事業を開始。また、「東京師範学校」及び「東京女子師範学校」の附属小学校、幼稚園生徒にて授業を行う。また、伝習人を募集、音楽の授業と教員の養成を始める。

1882(明治15)年 - 1883(明治16)年

  • 師範教育研究のためのアメリカ留学から帰国した伊沢修二高嶺秀夫らを中心に、小学師範学科教職員講習を通じ、ペスタロッチ主義による小学校教育法の普及が行われる。生徒の自発性を重視する開発教育は、師範学校を中心に全国に広まりブームとなる。

1885(明治18)年

  • 伊沢修二(33-34歳)、森有礼が文部大臣に就任。教科書の編纂などに務める。

1886(明治19)年3月

  • 伊沢修二(34歳)、文部省編輯局長に。

1887(明治20)年10月4日

  • 伊沢修二(36歳)、文部省音楽取調掛掛長であった自身のほか、菊池大麓・外山正一・穂積陳重ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ付建議」に基づき、文部省音楽取調掛を改称して「東京音楽学校」創立。初代校長に。

1888(明治21)年

  • 伊沢修二(36-37歳)、文部省直轄の訓盲唖院を改称して設立された「東京盲唖学校」の初代校長に。​

1890(明治23)年5月12日

  • 伊沢修二(38歳)、奏楽堂を含む校舎が新築、日本最初の音楽学校として「東京音楽学校」開校。

1890(明治23)年

  • 伊沢修二(38-39歳)、国家教育社を創設。忠君愛国主義の国家教育を主張、『教育勅語』普及に努める。

1891(明治24)年

  • 東京音楽学校」、開校まもなく、国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる。

1892(明治25)年8月

  • 伊沢修二(40歳)、国立教育期成同盟を結成。小学校教育費国庫補助運動を開始。

1893(明治26)年6月

1894(明治27)年

  • 伊沢修二(43歳)、日清戦争後、日本が台湾を領有、台湾総督府民政局学務部長心得に。統治教育の先頭に立つ。

1895(明治28)年6月

  • 伊沢修二(43-44歳)、台北北部の芝山巌に小学校「芝山巌学堂」を設立。

1896(明治29)年1月

  • 伊沢修二(44歳)、帰国中、日本に抵抗する武装勢力に小学校「芝山巌学堂」が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生。(芝山巌事件)

1897(明治30)年

  • 伊沢修二(45-46歳)、貴族院勅選議員に。

1899(明治32)年4月

1899(明治32)年8月30日

  • 伊沢修二、高等教育会議議員に。

1903(明治36)年

  • 伊沢修二(51-52歳)、吃音矯正事業に務め、楽石社を創設。

1917(大正6)年5月3日

  • 伊沢修二(67歳)、死去。享年、67歳。

伊沢修二
bottom of page