東京外国語大学

 

二葉亭四迷

ふたばていしめい

1864(元治元)年2月28日/4月4日 - 1909(明治42)年5月10日

1864(元治元)年2月28日/4月4日

  • 二葉亭四迷、江戸市ヶ谷合羽坂の尾張藩上屋敷に鷹狩り供役を勤める尾張藩士・長谷川吉数と母・志津の子として生まれる。

1868(慶応3)年11月

  • 二葉亭四迷(4歳)、母、祖母と共に名古屋に。野村秋足の塾で漢学を学ぶ。

1871(明治4)年11月

  • 二葉亭四迷(7歳)、名古屋藩学校「明倫堂」入学。林正十郎らにフランス語を学ぶ。

1872(明治5)年11月

  • 二葉亭四迷(7歳)、名古屋藩学校「明倫堂」卒業。東京に、麹町区飯田町に住む。

1875(明治8)年5月

  • 二葉亭四迷(11歳)、松江に。内村友輔から漢学を学ぶ。

1878(明治11)年5月

  • 二葉亭四迷(14歳)、再び東京に。「森川塾」入塾。

1880(明治13)年

  • 二葉亭四迷(15-16歳)、ロシアとの千島樺太交換条約を受け、ロシアに対する日本の危機感を持ち、「陸軍士官学校」受験。不合格になったため、軍人となることを諦め、外交官となる決意をする。

1881(明治14)年5月

  • 二葉亭四迷(17歳)、外交官を目指し、「東京外国語学校露語科」入学。ロシア語を教授したレフ・メーチニコフ、黒野義文、古川常一郎の影響で、次第にロシア文学に心酔するように。

1883(明治16)年2月1日 - 1885(明治18)年12月25日

  • 二葉亭四迷(18-21歳)、「専修学校」で学ぶ。

1885(明治18)年9月

  • 東京外国語学校」、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は「東京大学予備門」に合併、英・仏・独以外の語学科が「東京商業学校」に合併される。「東京商業学校」合併に対し、「東京外国語学校」学生は激しく反発、中退者も出現。「東京外国語学校」は廃止に。

1885(明治18)年

  • 坪内逍遥(25-26歳)、評論『小説神髄』発表。小説を美術・芸術として発展させるため、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定。「小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐ」と論じる。この心理的写実主義により、日本の近代文学の誕生に大きく貢献。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』著作。しかし、自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、近代文学観が不完全なものに終っていることを、後に二葉亭四迷『小説総論』『浮雲』によって批判的に示される。

1886(明治19)年1月

1886(明治19)年2月

  • 二葉亭四迷(21-22歳)、坪内逍遥を訪ね、以後毎週通うように。坪内逍遥の勧めで『小説総論』を『中央学術雑誌』に発表。また、ツルゲーネフ『父と子』の一部を訳していたが、未発表に終わる。

1887(明治20)年

  • 二葉亭四迷(22-23歳)、『新編浮雲』第一篇を、坪内雄蔵(坪内逍遥の本名)名義で刊行。「はしがき」で初めて、「二葉亭四迷」と名乗る。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対し、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。

  • 処女小説『浮雲』(第一篇~第三篇)は、第三篇以降の草案があったため未完に終わった作品として紹介されていることも。写実主義の描写と言文一致の文体で、当時の文学者たちに大きな影響を与える。先立って書かれた坪内逍遥『当世書生気質』に色濃く残っていた戯作文学の影響を排し、日本の近代小説の始まりを告げたとされる。

  • ロシア語が堪能で、同時代のロシア写実主義文学を翻訳、紹介。ツルゲーネフ『猟人日記』の一部を訳した「あひゞき」は、その自然描写の文体が多くの作家に影響を与える。

 

1887(明治20)年

  • 二葉亭四迷(22-23歳)、閣官報局の官吏となり、筆を折る。社会主義の影響から、貧民救済策について考える。貧民街に出入りするうち、出会った娼婦が最初の妻福井つね。貧民救済への関心は、のちに貧民問題や労働問題を扱うジャーナリストとなる松原岩五郎や横山源之助との交友を生み、影響を与えることに。

1895(明治28)年

  • 二葉亭四迷(30-31歳)、「陸軍大学校露語科」教示嘱託に。

1899(明治32)年

  • 二葉亭四迷(34-35歳)、再び「東京外国語学校」が設立される。旧制「東京外国語学校」時代の恩師・古川常一郎の推薦を受け、ロシア語科教授に。

1901(明治34)年

  • 二葉亭四迷(36-37歳)、海軍編修書記を経て、「海軍大学校露語」教授嘱託に。

 

1904(明治37)年3月

  • 二葉亭四迷(39歳)、大阪朝日新聞に入社。東京出張員に。その仕事にはあまり向かず、東京朝日新聞社主筆・池辺三山のはからいで、東京朝日に移籍。小説連載。『其面影』や『平凡』を発表、読者からは大好評で迎えられる。

1906(明治39)年

  • 二葉亭四迷(41-42歳)、ロシア滞在中、エスペラントに学ぶ。日本で入門書を出版。

1908(明治41)年

  • 二葉亭四迷(43-45歳)、朝日新聞特派員として、ロシア赴任。駐在中、「東京外国語学校」時代のロシア語恩師・黒野義文が教壇に立つペテルブルクへ向かう。

1908(明治41)年

  • 二葉亭四迷(43-45歳)、森鴎外の『舞姫』、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』の露訳を行う。白夜のために不眠症に悩まされ、ウラジーミル大公の葬儀のために雪の中でずっと立っていたことが災いし、発熱。肺炎、肺結核におかされ、死を予感。妻や祖母宛に遺言状を書く。友人の説得で帰国。

1909(明治42)年5月10日

  • 二葉亭四迷(45歳)、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で死去。享年、45歳。