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ダイガクコトハジメ - 東京藝術大学

東京藝術大学

 

東京美術学校創立 : 1887(明治20)年10月

東京音楽学校創立 : 1887(明治20)年10月4日

​大学設立: 1949(昭和24)年5月

東京美術学校創立者 : アーネスト・フェノロサ、岡倉天心

​東京音楽学校創立者 : 伊沢修二

​前史  :

文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合 → 東京美術学校 → 東京藝術大学美術学部

文部省音楽取調掛 → 東京音楽学校 → 東京藝術大学音楽学部に

学制改革により東京美術学校と東京音楽学校を包括 → 東京藝術大学

東京工業学校工業図案科 → 東京高等工業学校工業図案科 → 東京美術学校図案科 → 東京高等工藝学校 → 東京工業専門学校 → 千葉大学東京工業専門学校千葉大学工芸学部 → 千葉大学工学部

​「東京藝術大学」年表

1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月

  • 伊沢修二(23-26歳)文部省の「師範学校」教育調査のため、神津専三郎、高嶺秀夫と共にアメリカ留学。「マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校」で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。「ハーバード大学」で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。

  • 伊沢修二、渡米中、「ハーバード法律学校(現在のハーバード大学)」で学ぶ目賀田種太郎と出会う。日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと、共に研究。「東京音楽学校」創立に向け尽力。

1875(明治8)年

  • 岡倉天心(11-12歳)、「東京開成学校」入学。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことより、講師アーネスト・フェノロサの助手に。フェノロサの美術品収集を手伝う。​

1876(明治9)年

  • 工部省「工部大学校」内に、日本最初の美術教育機関「工部美術学校」設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。「画学科」「彫刻科」二科設置、純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。

 

1878(明治11)年

  • 伊沢修二(26-27歳)文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書を文部大臣に提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。

1879(明治12)年

  • 田中不二麿(33-34歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。

1880年(明治13)年3月

1881(明治14)年

  • 九鬼隆一(26-27歳)、渡仏中、西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけで、美術分野に関心を持つ。後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。​

1882(​明治18)年 - 1883(明治19)年

  • アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価が行われ、国粋主義が台頭。西洋美術教育「工部美術学校」廃校。

  • 九鬼隆一、特命全権公使としてワシントンD.C.赴任。公使館の客間に数百幅の日本画を飾り、日本美術を紹介。また古美術品の海外流出防止の観点より、国宝保存を文部省や宮内省に進言。背景に、以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったとされる。

1886(明治19)年 - 1887(明治20)年

  • 岡倉天心(22-24歳)文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的とする欧米調査旅行に。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。

1887(明治20)年10月

1887(明治20)年10月

  • 九鬼隆一(35歳)、帰国。宮内省図書頭に。臨時全国宝物取調掛を設置、自ら委員長となり、フェノロサや岡倉天心が委員を務め、文化財の調査・保護に当たる。

1887(明治20)年10月4日

  • 伊沢修二(36歳)文部省音楽取調掛掛長であった自身のほか、菊池大麓・外山正一・穂積陳重ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ付建議」に基づき、文部省音楽取調掛を改称して「東京音楽学校」創立。初代校長に。

1889(明治22)年2月

  • 濱尾新(39歳)、「東京美術学校」開校。文部省図画取調掛委員長として、校長事務取扱に。翌年1890(明治23)年、校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就任。教官に、黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之、後に川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを加える。ほとんどが日本画家などの伝統的美術家であり、日本伝統美術の振興を目指す理念が具体化された形になる。

1889(明治22)年

  • 日本最初の国立美術教育機関「工部美術学校」、西洋美術教育のみで発足するも、財政事情悪化に加え、欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校。1889(明治22)年、新たに国立の美術教育機関「東京美術学校」が開校するも、西洋美術が排されたため、「工部美術学校」出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、「明治美術会」発足。当初は、反「東京美術学校」の一面を備えていたが、黒田清輝が入会、政府への人脈を獲得。

1889(明治22)年

  • 松岡壽(26-27歳)、「明治美術会」参加。印象派風の新画風で新派「外光派」(紫派)と呼ばれた黒田清輝に対し、「工部美術学校」系の西洋画家は旧派「脂派」と呼ばれる。藤島武二ら多くの後進を指導。

1890(明治23)年

  • 岡倉天心(26-27歳)、「東京美術学校」校長に。日本美術史を講義、日本美術史叙述の嚆矢とされる。副校長に、フェノロサ。福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てる。

1890(明治23)年5月12日

  • 伊沢修二(38歳)、奏楽堂を含む校舎が新築、日本最初の音楽学校として「東京音楽学校」開校。

1891(明治24)年4月

  • 九鬼隆一(38歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令で、シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行なう、副総裁に。

1891(明治24)年

  • 「東京音楽学校」、開校まもなく、国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる。

1893(明治26)年

1893(明治26)年6月

  • 「東京美術学校」、「高等師範学校」に移管、附属学校に格下げされる。

1893(明治26)年

  • 九鬼隆一(40-41歳)、シカゴ万国博覧会の日本展示は、岡倉天心の意向もあり、日本画を中心とした伝統的なものとなる。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を「東京美術学校」が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。

1896(明治29)年

  • 黒田清輝(29-30歳)、「明治美術会」脱退、「白馬会」結成。「東京美術学校」に西洋画科を発足。以後の日本洋画の動向を決定付ける。

1896(明治29)年

  • 「東京美術学校」、日本画ほか伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように。西洋画科・図案科、新設。西洋画科教官に、黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助。図案科教官に、福地復一・横山大観・本多天城。洋画興隆の基礎が形成される。

1898(明治31)年

  • 松岡壽(35-36歳)、「明治美術会」新派・黒田清輝を中心に設立された「東京美術学校西洋画科」に、旧派側として参画、教授に。

1898(明治31)年

  • 岡倉天心(34-35歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。「東京美術学校」での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長、「東京美術学校」校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦、西郷孤月、菱田春草、寺崎広業、横山大観、岡部覚弥、桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足。(美術学校騒動)

1898(明治31)年3月29日-12月22日

  • 高嶺秀夫、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究をとおし、伝統美術の保護を進めたフェノロサとも交遊。

1898(明治31)年

1899(明治32)年4月

1899(明治32)年9月

  • 東京工業学校工業図案科」、工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない、という考えに基づき設置。

1901(明治34)年

  • 正木直彦(38-39歳)岡倉天心辞職後の「東京美術学校」にて、第5代校長に就任。以後、30年長にわたる長期間校長を務め、校制改革。制度・組織が安定。

1904(明治37)年

1907(明治40)年

  • 「東京音楽学校」、西洋音楽一辺倒であったが、文部省邦楽調査掛が設置され、古邦楽の採譜・演奏が始まる。瀧廉太郎・山田耕筰・信時潔ら作曲家を輩出するようになり、音楽家・音楽教師・音楽鑑賞家を養成する中心的教育機関となる。

1907(明治40)年

1914(大正3)年

  • 安田禄造(39-40歳)、オーストリア留学より帰国。「東京高等工業学校工業図案科」教授昇進。しかし、間も無く東京美術学校図案科」に併合されることに。一人、「東京高等工業学校」に残ることに。「東京高等工業学校工業図案科」の教官と在校生全員は、「東京美術学校図案科」に移ることに。

1914(大正3)年

  • 東京高等工業学校工業図案科」、「東京美術学校図案科」に併合され、廃止に。在学生、「東京美術学校」転入。しかし、「機能美」実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、また、日本美術に重きを置き、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性はすぐには理解されず。

  • 松岡壽東京美術学校図案科」科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。「東京美術学校」に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。

1919(大正8)年8月20日

​1921(大正10)年12月9日

1929(昭和4)年

  • 正木直彦(66-67歳)、「東京美術学校」が蒐集した美術品を展示するための「陳列館」を建設​。

1932(昭和7)年

  • 正木直彦(69-70歳)、「東京美術学校」校長退任。後任は文部省官僚ではなく、初めて学内から選出された、西洋画科教授・和田英作が校長に。

1946(昭和21)年3月

学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。

1946(昭和21)年

  • 「東京美術学校」、男子のみの学校であったが、女子の入学が許可される。

1949(昭和24)年5月31日公布・施行

国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。

1949(昭和24)年5月

  • 「東京美術学校」、「東京音楽学校」、学制改革により発足した新制「東京藝術大学」に包括される。

1952(昭和27)年3月31日

  • 「東京美術学校」、「東京音楽学校」、廃校。

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