東京大学
濱尾新
はまおあらた
1849(嘉永2)年4月20日/5月12日 - 1925(大正14)年9月25日
1849(嘉永2)年4月20日/5月12日
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濱尾新、豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれる。幼名、貞次郎。
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濱尾新(5歳)、父・浜尾嘉兵治を亡くす。
1869(明治2)年9月
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濱尾新(19歳)、藩費遊学制度により、「慶應義塾」入塾。
1871(明治4)年
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高島嘉右衛門(38-39歳)、スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授、語学中心の私塾「藍謝堂(高島学校)」を横浜伊勢山下と入船町に開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに「慶応義塾」の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎、濱尾新、日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。
1871(明治4)年
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濱尾新、「大学南校」に学ぶ。
1872(明治5)年
1873(明治6)年 - 1874(明治7)年
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濱尾新(23-25歳)、アメリカ留学。オークランドの兵学校に学ぶ。
1874(明治7)年
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濱尾新(24-25歳)、帰国。「東京開成学校」校長心得に。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。
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校地は「東京大学法・理・文三学部」が錦町、「東京大学医学部」が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地とで離れていた。職制や事務章程も別々に定められ、それぞれに綜理が置かれる。
1877(明治10)年
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加藤弘之(40歳)、「東京大学法・理・文三学部」綜理に。
1877(明治10)年
1877(明治10)年
1881(明治14)年5月26日
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濱尾新(32歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続ける手島精一に、工業教育推進論者として同調。文部大輔・九鬼隆一と共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵。
1885(明治18)年
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濱尾新(35-36歳)、学術制度取調を目的に、ヨーロッパ各国へ。
1889(明治22)年2月
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濱尾新(39歳)、「東京美術学校」開校。文部省図画取調掛委員長として、校長事務取扱に。翌年1890(明治23)年、校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就任。教官に、黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之、後に川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを加える。ほとんどが日本画家などの伝統的美術家であり、日本伝統美術の振興を目指す理念が具体化された形になる。
1890(明治23)年
1890(明治23)年
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「東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。
1890(明治23)年9月
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濱尾新(41歳)、貴族院議員に。
1893(明治26)年
1897(明治30)年6月
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濱尾新(48歳)、「京都帝国大学」創立に伴い、「帝国大学」を「東京帝国大学」に改称。
1897(明治30)年11月6日 - 1898(明治31)年1月12日
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濱尾新(48歳)、第2次松方正義内閣において、文部大臣に。内閣総辞職にて、辞職。
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濱尾新、高等教育会議議長に。
1903(明治36)年6月 - 1906(明治39)年1月
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日露戦争開戦直前、「東京帝国大学」教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、「学習院」教授中村進午の7人が、内閣総理大臣桂太郎、外務大臣小村壽太郎に意見書提出(七博士意見書)。桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫った。主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかった。日露戦争末期、戸水寛人は賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。文部大臣・久保田譲は文官分限令を適用、休職処分とする。ところが、戸水寛人は金井延・寺尾亨と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出。文部大臣・久保田譲は、東京帝国大学総長・山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。「東京帝国大学」・「京都帝国大学」の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言。このため、1906(明治39)年1月、戸水寛人の復帰が認めらた(戸水事件)。
1905(明治38)年12月
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濱尾新(56歳)、「東京帝国大学」総長に再任。「戸水事件」対処などにあたる。
1907(明治40)年
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濱尾新(57-58歳)、「日露戦争の功」により、男爵に叙せられる。
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濱尾新、枢密顧問官、東宮大夫を歴任。
1912(明治45/大正元)年
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濱尾新(62-63歳)、子爵に叙せられる。
1924(大正13)年
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濱尾新(74-75歳)、枢密院議長に就任。
1925(大正14)年
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濱尾新(75-76歳)、内大臣平田東助が病気辞職した際、同日牧野伸顕の就任まで、臨時代理を務める。
1925(大正14)年9月25日
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濱尾新(76歳)、死去。享年、76歳。
