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ダイガクコトハジメ - 足利学校

足利学校

 

創立  : 諸説あり

創立者 : 諸説あり 小野篁? 足利義兼? 上杉憲実

​「足利学校」年表

奈良時代? 平安時代初期832(天長9)年? 鎌倉時代初期? 室町時代中期1439(永享11)年?

  • 下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に「足利学校」が創立される。教育の中心は儒学であったが、易学を学ぶために訪れる者も多く、また兵学、医学なども教えた。「板東の大学」・「日本最古の学校」と呼ばれる。

832(天長9)年

1432(永享4)年

  • 上杉憲実(21-22歳)、足利領主となり、室町前期には衰退していた「足利学校」の再興に尽力。鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げる。

1438(永享10)年10月

  • 上杉憲実(27-28歳)、武蔵分倍河原に着陣、先鋒の一色軍を破る。旧主を攻めることをよしとせず、自ら軍を進めることはなかったが、家宰の長尾忠政が代わりに兵を進める。鎌倉軍は幕府軍に敗れ、足利持氏は出家して永安寺に入る。上杉憲実は幕府に旧主・足利持氏の助命と足利義久の関東公方就任を再三再四嘆願するも、足利義教はこれを許さず、足利持氏を殺すよう命じる。足利持氏・義久父子の成敗を固辞する姿勢から嫌疑がかけられたため、このままでは自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれると覚悟。「足利学校」に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進、身辺整理を行う。

1439(永享11)年

1447(文安4)年

  • 上杉憲実(36-37歳)、足利荘及び「足利学校」に対して3か条の規定を定める。この中で「足利学校」で教えるべき学問は『三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選』のみと限定。「仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべき」とした。教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。教育の中心は儒学であったが、初代庠主・僧快元が『易経』のみならず易学にも精通していたことから、易学を学ぶために訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。​

永正年間(1504年 - 1520年)から天文年間(1532年 - 1554年)

  • 火災で一時的に衰微したが、第7代庠主・九華が北条氏政の保護を受けて再興。学徒3,000人とされ、事実上日本の最高学府となり、全盛期を迎える。当時の「足利学校」の様子について、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、海外にまでその名が伝えられる。

戦国時代

  • 易学等の実践的な学問を身に付けた出身者が、数多く戦国武将に仕えた。

1590(天正18)年

  • 豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏と足利長尾氏が滅び、庇護者を失うことになる。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになるも、第9代庠主・三要は関東の新領主である徳川家康に近侍。信任を受け、保護を得て「足利学校」を守り通す。

江戸時代前期 - 中期

  • 第9代庠主・三要は徳川家康の信任が厚く、徳川家康が京都伏見に建立した瑞巖山圓光寺の開山となる。徳川家康の下で「詩経」の講義、漢籍の出版、近畿地方の寺院の統制、外交文書の作成等に活躍、徳川家康との繋がりの強さから、「足利学校」は幕府より100石の朱印地を賜る。

  • 毎年初めにその年の吉凶を占った年筮を幕府に提出。足利領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、2度目の繁栄を迎える。

江戸時代中期 - 後期

  • 京都から関東に伝えられた朱子学の官学化により、易学中心の学問が時代遅れに。また平和が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなり、衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として注目していた。

1872(明治5)年

  • 明治初期には建物があるのみ、学校組織は存在せず。廃校となる。

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