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青山学院大学
年表よりGoogleAI「Gemini」にて作成
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「地の塩、世の光を求めて」
青山学院大学の”始まり”物語
序章:黎明の光芒
当学院の物語は、日本が永い眠りから覚め、近代国家としての道を歩み始めた激動の時代。明治の黎明期にその端を発します。1867年の大政奉還は単に政権の移行を意味するだけでなく、この国が世界へと扉を開き、新しい価値観と対峙していくことの宣言でもありました。
新政府の悲願であった不平等条約改正の試みは、岩倉使節団に「信教の自由」が近代国家の基本原則であると痛感させる結果をもたらします。この外交上の要請が1873年のキリスト教禁制高札撤廃へと繋がり、当学院の設立を可能にする道を開きました。
この歴史的転換点を捉え、米国メソジスト監督教会は日本宣教という大きな挑戦を決意します。初代事業総理ロバート・S・マクレイを中心とする宣教師たちが太平洋を越えてこの地に降り立った時、彼らの胸には神の教えを伝える情熱と共に、「教育による人格形成こそが日本の近代化に不可欠である」という強い信念がありました。文明開化の熱気の中、多くの日本人が西洋の知識や技術を渇望していましたが、彼らの構想はその先にありました。単なる語学や知識の伝達ではなく、キリスト教の信仰に基づく人格そのものを育むことこそ、新しい日本の礎になると信じていたのです。
その挑戦に呼応したのが、津田仙をはじめとする日本の近代化に情熱を燃やす開明的な知識人たちでした。娘・津田梅子をいち早く海外に送り出すなど常に未来を見据えていた津田仙は、宣教師たちの思想に深く共鳴。やがて自らもキリスト者となり、その生涯を当学院の礎を築くために捧げることになります。
国を超えた人々の連携と教育への意志が、青山学院の原点となりました。1874年、宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーによる麻布の「女子小学校」設立。1878年、津田仙とジュリアス・ソーパー宣教師による築地の男子英学校「耕教学舎」。そして1879年、横浜に生まれた神学校「美會神学校」。これら三つの源流は、それぞれが時代の要請に応えるという明確な使命を帯びて、当学院の歴史の礎を築いたのです。
第一章:基盤形成の挑戦
黎明期の情熱を永続する教育事業として確立するためには、強固な経営的基盤が不可欠でした。点在していた源流はより大きな力を生み出すために統合へと向かい、1881年に「東京英学校」としてその姿を一つにします。
しかし青山学院の挑戦における最大の飛躍は、初代事業総理ロバート・S・マクレイの熱心な働きかけと、それに応えた篤信家ジョン・F・ガウチャーの決断によってもたらされました。ロバート・S・マクレイは、日本における教育事業の重要性を粘り強く本国に訴え続けました。その声は遠く米国の地で実業家ジョン・F・ガウチャーの心を動かします。彼はまだ見ぬ日本の若者たちのために、現在の青山キャンパス中心部の広大な土地を購入するための莫大な私財を寄付することを決断。この1882年の大規模な資金援助がなければ、当学院の未来は全く違うものになっていたでしょう。
揺るぎない土地という礎を得て、1883年に東京英学校は青山へ移転し、「東京英和学校」と改称。ここに活動拠点は定まりました。さらに1890年代には女子教育の流れを汲む「青山女学院」も発足し、男女の学び舎がこの丘に並び立ちます。そして1894年、当学院はその名を「青山学院」と改め、教育機関としての基盤を確立したのです。
第二章:試練の時代と建学の魂
青山学院の発展は、しかし、平坦な道ではありませんでした。1890年の教育勅語発布以降、国家主義の波が教育界を覆い始め、キリスト教に基づく当学院の理念は常に国家の方針との緊張関係に置かれることになります。
そ の緊張が頂点に達したのが、1899年の「文部省訓令第12号」でした。それは認可学校での宗教教育を禁じるという、当学院の存在意義そのものを問う厳しい通達でした。それは学院の存続そのものを揺るがす、苦渋の選択を迫るものでした。理事会では連日激しい議論が交わされました。安定した経営のために一時的にでも国家の方針に従うべきだという現実的な意見と、教育の魂を売ってまで存続する意味はないという理想を掲げる声。その中で指導者たちは、「地の塩、世の光」となるべき人間を育てるという創立以来の使命に立ち返ります。たとえ茨の道であろうとも、ここで理念を曲げることは自らの存在意義を消し去ることに他ならない、と。
特典を失い学校経営が困難になることを覚悟の上で、青山学院は建学の精神を貫き、キリスト教教育を続ける道を選択します。この毅然とした決断は、当学院の教育理念の根幹を示すものとなりました。この苦難の時代、後に第3代院長となる高木壬太郎が提唱したスクール・モットー「地の塩、世の光」(1915年)は、この時の覚悟と想いを象徴する当学院の教育指針となったのです。
大正デモクラシーの自由な空気が「大学令」(1918年)の公布を後押しし、当学院は大学昇格という新たな目標を掲げました。しかしその矢先、1923年、関東大震災が校舎の大部分を倒壊・焼失させました。この物理的な破壊は、しかし、「創造的復興」という新たな挑戦をもたらします。震災の悲劇を乗り越え、それまで別の道を歩んできた青山学院と青山女学院が、組織として合同し復興へ向かうことを決意したのです。
第三章:新時代への飛躍
1927年、両学院は正式に合同。震災の灰の中から青山学院はより強固な総合学園として再生しました。復興の象徴として「間島記念館」(1929年)や「ベリーホール」が丘の上に荘厳な姿を現したのもこの頃です。
しかし時代の平和は長くは続きませんでした。やがて戦争の暗い影が日本を覆い、1943年には学徒出陣で多くの学友を戦地へと送るという事実も記録されています。
そして終戦。GHQ指導の下で始まった戦後の学制改革は、日本の教育を根底から作り変える大事業でした。旧制の専門学校などが4年制の新制大学へと再編されるというこの歴史的な変革は、長年大学設立の構想を抱いてきた当学院にとって、それを実現する好機となりました。
1949年、春。当学院は文学部・商学部・工学部の3学部を擁する新制「青山学院大学」として、ついに発足の日を迎えます。それは明治の宣教師たちの祈り、津田仙ら日本人協力者の献身、ガウチャー師の篤い支援、そして幾多の試練の中で理念を守り抜いた教職員と先人たちの挑戦と想い、その全ての歩みが結実し、大学としての新たな歴史が始まった瞬間でした。青山学院の「はじまりの物語」は絶えざる挑戦の物語であり、その精神はこの青山の地で今なお未来を担う新しい世代を育み続けています。