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關一

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關一

せきはじめ

1873(明治6)年9月26日 - 1935(昭和10)年1月26日

法学博士、社会政策学者、大蔵省、神戸商業学校(後に神戸高等商業学校、現・神戸大学)教諭、新潟市立商業学校校長、高等商業学校教授、東京高等商業学校教授、明治大学商学部設立・講師、第7代大阪市長、大阪商科大学(現・大阪市立大学)創立、「大阪の父」

「關一」に関する書籍 [外部]

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住

徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。

  • 1873(明治6)年9月26日 關一(1歳)、静岡県伊豆に旧幕臣で沼津兵学校第4期資業生の關近義と母・よしの長男として生まれる。明治維新後、徳川将軍家の駿府移封に従い静岡県移住。母・よしは共立女子職業学校教員。

  • 1893(明治26)年4月 矢野二郎(49歳)、長期在任に伴う専権化した学校運営に不満を募らせた高等商業学校生徒による排斥騒動が激化。校長を退任。

  • 1893(明治26)年 關一(21歳)、高等商業学校生徒による矢野二郎校長の排斥運動の首謀者とされ、退学処分に。後に復学。

  • 1893(明治26)年 關一(21歳)、高等商業学校卒業。大蔵省入省。監督局銀行課配属。

  • 1894(明治27)年 關一(22歳)、大蔵省辞職。高等商業学校後輩の福田徳三と共に、神戸商業学校(後に神戸高等商業学校、現・神戸大学)教諭に。

  • 1894(明治27)年 福田徳三(21歳)關一と共に、神戸商業学校(後に神戸高等商業学校、現・神戸大学)教諭に。

  • 1896(明治29)年 關一(24歳)、新潟市立商業学校校長に。

  • 1897(明治30)年 關一(25歳)、高等商業学校教授に。社会政策論及びその延長として都市計画論を講じる。

  • 1897(明治30)年9月、高等商業学校、予科1年・本科3年の上に専攻部(1年)設置。大学昇格を目指す。

  • 1898(明治31)年 關一(26歳)、文部省に命じられ、ベルギー留学。アントウェルペンの鉄道学校などで学ぶ。

  • 1898(明治31)年 福田徳三(25歳)文部省に任じられ、ドイツのライプツィヒ大学・ミュンヘン大学に留学。カール・ビュッヒャーやルヨ・ブレンターノに師事。

  • 1900(明治33)年 關一(28歳)、ドイツ留学。アドルフ・ワーグナーやグスタフ・フォン・シュモラーの講義を受講、本格的に経済学者から社会政策学者に転向。

  • 1900(明治33)年1月-2月 關一(28歳)、ベルリンで留学中の福田徳三と再会。親密に交流。

  • 1900(明治33)年7月 渋沢栄一(61歳)高等商業学校の同窓会にて、商業大学必要論を開陳。設立について調査研究を続ける。商業大学実現のために斡旋尽力。

  • 1901(明治34)年1月 神田乃武(45歳)、​欧州留学中の高等商業学校教授7名(石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)と共に、ベルリンにおいて『商業大学の必要』を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への商業学士授与を足がかりに、大学昇格運動開始。

  • 1901(明治34)年11月 關一(29歳)、ドイツ留学より帰国。​

  • 明治30年代 松崎蔵之助、金井延と共に、東京帝国大学法科大学へ社会政策学派の経済学移植に貢献、一時代を築く。ワグナーに強く影響を受ける。門下生に、柳田国男・高野岩三郎・河上肇ほか。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1904(明治37)年4月 關一(32歳)、東京高等商業学校同僚の下野直太郎星野太郎・佐野善作・村瀬春雄・坂本陶一・石川文吾・瀧本美夫・横井時冬らと共に、私立大学初の商学部となる明治大学商学部設立に尽力。鉄道・経済政策を講じる。

  • 1904(明治37)年5月、明治大学、学則改正により法学部・政学部・文学部・商学部設置。各学部に本科・専門科設置。

  • 1907(明治40)年、『商科大学設置に関する建議案』が帝国議会を通過。東京高等商業学校の大学昇格運動は最高潮に。

1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 申酉事件

大学への昇格を目指す東京高等商業学校に対し、第2次桂内閣および文部省東京帝国大学法科大学に経済・商業2科を新設し、さらに東京高等商業学校専攻部を廃止、東京帝国大学法科大学に事実上吸収する方針を決定。商業大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる商業大学昇格運動は挫折。運動を進めてきた関一佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。

  • 1909(明治42)年 關一(37歳)、東京高等商業学校専攻部廃止計画への抗議として学生たちが総退学した申酉事件に連なり、抗議の依願退官。嘱託講師に。

  • 1910(明治43)年 關一(38歳)、法学博士を取得。

  • 1914(大正3)年 關一(42歳)、申酉事件を経て、大学教授の世界に嫌気がさす。京都帝国大学・戸田海市教授及び東京高等商業学校・小山健校長の紹介・斡旋で、池上四郎大阪市長の補佐として大阪市助役に招かれる。「栄誉ある東京高等商業学校教授を辞し、格下の大阪市助役に就任するのはどういうことか」と騒がれる。文部省渋沢栄一からも留まるよう説得を受けるも、意思は変わらず。

  • 1923(大正12)年 關一(51歳)、第7代大阪市長に。以後20年にわたり大阪市助役・大阪市長を務め、大大阪時代を実現。「大阪の父」と呼ばれる。

  • 關一、社会政策学や都市計画学の知見を活かし、受益者負担金制度による御堂筋の拡幅の他、大阪都市協会設置・第二次市域拡張・市営公園や公営住宅の整備・大阪市営バス事業の開始・大阪港の建設・地下鉄の建設・大阪市高速度交通機関計画策定・淀屋橋や大阪駅前の区画整理事業・大阪城公園の整備及び大阪城天守閣の再建・大阪市民病院の開設・日本初の市立大学となる大阪商科大学創立・大阪市中央卸売市場の開設など、様々な都市政策を実行。

  • 關一、政策に対する住民からの反対も多かったが、これらの実現によって人口が東京市をも上回ったどころか、世界各国の都市でも6番目の人口を擁することとなり、大大阪時代の全盛期を迎える。

  • 1935(昭和10)年1月26日 關一(63歳)、大阪市長在職中に死去。享年61歳。

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