初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
長崎遊学
それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即《すなわ》ち私の年二十一歳(正味《しょうみ》十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云《い》うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置《さてお》き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度《ちょうど》ペルリの来た時で、亜米利加《アメリカ》の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆|知《しっ》て、同時に砲術と云うことが大変|喧《やかま》しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆|和蘭《オランダ》流に就《つい》て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何《どう》しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分《わか》らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本《おおもと》の蘭文の書を読まなければならぬ。夫《そ》れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素《も》と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時《いつ》も出来が好《よ》くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然|頼《たのみ》にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時|丁度《ちょうど》兄が長崎に行く序《ついで》に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付《おちつ》き、始めて横文字の abc[#「abc」は斜体] と云《い》うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利《とくり》の貼紙《はりがみ》を見ても横文字は幾許《いくら》もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々|六《むず》かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞《しま》うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又|左程《さほど》でもなく、次第々々に易《やす》くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置《さてお》き、抑《そ》も私の長崎に往《いっ》たのは、唯《ただ》田舎の中津の窮屈なのが忌《いや》で/\堪《たま》らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有《ありがた》いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯《こんな》処《ところ》に誰が居るものか、一度《いちど》出たらば鉄砲玉で、再び帰《かえっ》て来はしないぞ、今日こそ宜《い》い心地《こころもち》だと独《ひと》り心で喜び、後向《うしろむ》て唾《つばき》して颯々《さっさつ》と足早《あしばや》にかけ出したのは今でも覚えて居る。
活動の始まり
夫《そ》れから長崎に行《いっ》て、そうして桶屋町《おけやまち》の光永寺《こうえいじ》と云《い》うお寺を便《たよ》ったと云うのは、その時に私の藩の家老の倅《せがれ》で奥平壹岐《おくだいらいき》と云う人はそのお寺と親類で、其処《そこ》に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候《いそうろう》になって居るその中に、小出町《おいでまち》に山本物次郎《やまもとものじろう》と云う長崎|両組《りょうぐみ》の地《じ》役人で砲術家があって、其処《そこ》に奥平が砲術を学んで居るその縁を以《もっ》て、奥平の世話で山本の家《いえ》に食客《しょっかく》に入込《いりこ》みました。抑《そ》も是《こ》れが私の生来《しょうらい》活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が眼《め》が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が在《あっ》て独息子《ひとりむすこ》、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて遣《や》らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計《くらし》は大きい。借金もある様子で、その借金の云延《いいのば》し、新《あらた》に借用の申込みに行き、又|金談《きんだん》の手紙の代筆もする。其処《そこ》の家に下婢《かひ》が一人に下男が一人ある。〔所で〕動《やや》もするとその男が病気とか何とか云《い》う時には、男の代《だい》をして水も汲む。朝夕《あさゆう》の掃除は勿論《もちろん》、先生が湯に這入《はい》る時は背中《せなか》を流したり湯を取《とっ》たりして遣《や》らなければならぬ。又その内儀《おかみ》さんが猫が大好き、狆《ちん》が大好き、生物《いきもの》が好きで、猫も狆も犬も居るその生物《いきもの》一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて遣《やっ》て居たから、酷《ひど》く調法な男だ、何とも云《い》われない調法な血気の少年であり乍《なが》ら、その少年の行状が甚《はなは》だ宜《よろ》しい、甚だ宜しくて甲斐々々《かいがい》しく働くと云うので、ソコデ以《もっ》て段々その山本の家の気に入《いっ》て、仕舞《しまい》には先生が養子にならないかと云う。私は前《まえ》にも云う通り中津の士族で、遂《つい》ぞ自分は知りはせぬが少《ちい》さい時から叔父《おじ》の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が夫《そ》れなら尚更《なおさ》ら乃公《おれ》の家の養子になれ、如何《どう》でも乃公《おれ》が世話をして遣《や》るからと度々《たびたび》云われた事がある。
その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物《しゃもつ》を取《とっ》て貸す。写したいと云《い》えば、写す為《た》めの謝料を取ると云うのが、先《ま》ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼《め》が悪いから皆私の手を経《へ》る。それで私は砲術家の一切の元締《もとじめ》になって、何もかも私が一切|取扱《とりあつかっ》て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島《うわじま》藩、五島《ごとう》藩、佐賀《さが》藩、水戸《みと》藩などの人々が来て、或《あるい》は出島《でじま》の和蘭《オランダ》屋敷に行《いっ》て見たいとか、或は大砲を鋳《い》るから図を見せて呉《く》れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が遣《や》る。私は本来|素人《しろうと》で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは訳《わ》けはない。颯々《さっさつ》と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独《ひと》り罷《まか》り出《で》て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる位《くらい》に挨拶をしたり世話をしたりすると云《い》う調子である。処《ところ》で私を山本の居候《いそうろう》に世話をして入れて呉れた人、即《すなわ》ち奥平壹岐《おくだいらいき》だ。壹岐と私とは主客《しゅかく》処《ところ》を易《か》えて、私が主人見たようになったから可笑《おか》しい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家《たいけ》の子だから如何《どう》も我儘《わがまま》だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在《あっ》て、蘭学医の家に通うたり和蘭|通詞《つうじ》の家に行ったりして一意専心《いちいせんしん》原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を経《ふ》るに従て、次第に意味が分《わか》るようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める訳《わ》けはない。その中に此方《こちら》は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い巧《たくら》みのある悪人ではない。唯《ただ》大家《たいけ》の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨《うま》く私を籠絡《ろうらく》して生捕《いけど》って仕舞《しま》えば譜代《ふだい》の家来同様に使えるのに、却《かえっ》てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十《とお》ばかり上だが、何分《なにぶん》気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還《か》えすような計略を運《めぐ》らしたのが、私の身には一大災難。
長崎に居ること難し
ソリャ斯《こ》う云《い》う次第になって来た。その奥平壹岐《おくだいらいき》と云う人に与兵衛《よへえ》と云う実父《じっぷ》の隠居があって、私共は之《これ》を御隠居様と崇《あが》めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後《のち》に父のするような事をして、又大阪に行《いっ》て勤番《きんばん》をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆|嫁《かたず》いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄《いとこ》の藤本元岱《ふじもとげんたい》と云う医者が唯《ただ》一人、能《よ》く事が分《わか》り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼《か》の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何《いず》れ長崎の倅《せがれ》壹岐の方から打合《うちあわせ》のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼《よび》に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還《よびかえ》せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々《そうそう》呼還せ、但しソレに就《つい》ては母が病気だと申遣《もうしつか》わせと云う御直《おじき》の厳命が下《くだ》ったから、固《もと》より否《いな》むことは出来ず、唯《ただ》畏《かしこま》りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送《よこ》して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向《おもてむき》の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯《こ》う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳《つまびらか》に事実を書いて呉《く》れたから、私は之《これ》を見て実に腹が立った。何だ、鄙劣《ひれつ》千万な、計略を運《めぐ》らして母の病気とまで偽《うそ》を云《い》わせる、ソンナ奴があるものか、モウ焼《や》けだ、大議論をして遣《や》ろうかと思《おもっ》たが、イヤ/\左様《そう》でない、今アノ家老と喧嘩をした所が、負けるに極《きま》って居る、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと思直《おもいなお》して、夫《そ》れからシラバクレて胆《きも》を潰《つぶ》した風《ふう》をして奥平の処に行て、扨《さて》中津から箇様《かよう》申して参りました、母が俄《にわか》に病気になりました、平生《へいぜい》至極《しごく》丈夫な方《ほう》でしたが、実に分らぬものです、今頃は如何《どう》云う容体《ようだい》でしょうか、遠国《えんごく》に居て気になりますなんて、心配そうな顔してグチャ/\述立《のべた》てると、奥平も大《おおい》に驚いた顔色《がんしょく》を作り、左様《そう》か、ソリャ気の毒な事じゃ、嘸《さぞ》心配であろう、兎《と》に角《かく》に早く帰国するが宜《よ》かろう、併《しか》し母の病気全快の上は又|再遊《さいゆう》の出来るようにして遣るからと、慰《なぐ》さめるように云うのは、狂言が旨《うま》く行われたと心中得意になって居るに違いない。ソレカラ又私は言葉を続けて、唯今《ただいま》御指図《おさしず》の通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言は御在《ござい》ませんか、何《いず》れ帰れば御目《おめ》に掛ります、又何か御品《おしな》があれば何でも持《もっ》て帰りますと云《いっ》て、一《ひ》ト先《ま》ず別れて翌朝《よくあさ》又|行《いっ》て見ると、主公が家に遣《や》る手紙を出して、之を屋敷に届けて呉れ、親仁《おやじ》に斯《こ》う/\伝言をして呉れと云い、又別に私の母の従弟《いとこ》の大橋六助《おおはしろくすけ》と云う男に遣る手紙を渡して、これを六助の処に持て行け、爾《そ》うすると貴様の再遊に都合が宜《よ》かろうと云《いっ》て、故意《わざ》とその手紙に封をせずに明《あ》けて見よがしにしてあるから、何もかも委細《いさい》承知して丁寧に告別して、宿に帰《かえっ》て封なしの手紙を開《ひらい》て見れば、「諭吉は母の病気に付き是非《ぜひ》帰国と云《い》うからその意に任せて還《かえ》すが、修業勉強中の事ゆえ再遊の出来るようその方《ほう》にて取計《とりはか》らえと云う文句。私は之《これ》を見てます/\癪《しゃく》に障《さわ》る。「この猿松《さるまつ》め馬鹿野郎めと独《ひと》り心の中で罵《ののし》り、ソレカラ山本の家にも事実は云われぬ、若《も》し是《こ》れが顕《あら》われて奥平の不面目《ふめんもく》にもなれば、禍《わざわい》は却《かえっ》て私の身に降《ふっ》て来て如何《どん》な目に逢うか知れない、ソレガ怖いから唯《ただ》母の病気とばかり云て暇乞《いとまごい》をしました。
江戸行を志す
丁度《ちょうど》そのとき中津から鉄屋惣兵衛《くろがねやそうべえ》と云う商人が長崎に来て居て、幸いその男が中津に帰ると云うから、兎《と》も角《かく》も之と同伴と約束をして置《おい》て、ソコデ私の胸算《きょうさん》は固《もと》より中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき処は江戸に限る、是《こ》れから真直《まっすぐ》に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事に就《つい》ては誰かに話して相談をせねばならぬ。所が江戸から来た岡部同直《おかべどうちょく》と云う蘭学書生がある。是れは医者の子で至極《しごく》面白い慥《たし》かな人物と見込んだから、この男に委細《いさい》の内情を打明けて、「斯《こ》う/\云《い》う次第で僕は長崎に居《お》られぬ、余り癪《しゃく》に障《さわ》るからこのまゝ江戸に飛出《とびだ》す積《つも》りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、大人《おとっさん》は開業医と開いたが、君の家に食客《しょっかく》に置て呉《く》れる事は出来まいか。僕は医者でないが丸薬《がんやく》を丸める位《ぐらい》の事は屹《きっ》と出来るから、何卒《どうか》世話をして貰《もら》いたいと云うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てゝ容易《たやす》く私の云う事を請合《うけあ》い、「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の親仁《おやじ》は日本橋|檜物《ひもの》町に開業して居《お》るから、手紙を書いて遣《や》ろうと云《いっ》て、親仁|名当《なあて》の一封を呉れたから私は喜んで之《これ》を請取《うけと》り、「ソコデ今この事が知れると大変だ、中津に帰らなければならぬようになるから、是《こ》ればかりは奥平にも山本にも一切|誰《たれ》にも云わずに、君|一人《ひとり》で呑込《のみこ》んで居て外《ほか》に洩《も》らさぬようにして、僕は是れから下ノ関に出て船に乗《のっ》て先《ま》ず大阪に行く、凡《およ》そ十日か十五日も掛《かか》れば着くだろう。その時を見計《みはか》ろうて中村(諭吉、当時は中村の姓を冒《おか》す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと云て長崎を出たと、奥平にも話して呉れ。是れも聊《いささか》か面当《つらあて》だと互に笑《わらっ》て、朋友と内々《ないない》の打合せは出来た。
諫早にて鉄屋と別る[#「諫早にて鉄屋と別る」は窓中見出し]それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認《したた》めて仕舞《しま》い、是《こ》れは例の御隠居様に遣《や》らなければならぬ。「私は長崎を出立《しゅったつ》して中津に帰る所存《つもり》で諫早《いさはや》まで参りました処が、その途中で不図《ふと》江戸に行《ゆ》きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就《つい》ては壹岐《いき》様から斯様《かよう》々々の御《ご》伝言で、お手紙は是《こ》れですからお届け申すと丁寧に認《したた》めて遣《や》って、ソレカラ封をせずに渡した即《すなわ》ち大橋六助《おおはしろくすけ》に宛《あて》た手紙を本人に届ける為《た》めに、私が手紙を書添《かきそ》えて、「この通りに封をせぬのは可笑《おか》しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘《まま》御届《おとど》け申します。原《もと》はと云《い》えば自分の方で呼還《よびかえ》すように企《くわだ》てゝ置きながら、表《うわ》べに人を欺《あざむ》くと云うのは卑劣《ひれつ》至極な奴《やつ》だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅《あんばい》に認《したた》めて、万事の用意は出来て、鉄屋《くろがねや》惣兵衛と一処に長崎を出立《しゅったつ》して諫早《いさはや》まで――この間《あいだ》は七里ある――来た。丁度《ちょうど》夕方|着《つい》たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨《さて》鉄屋、乃公《おれ》は長崎を出る時は中津に帰る所存《つもり》であったが、是れから中津に帰るは忌《いや》になった。貴様の荷物と一処に乃公《おれ》のこの葛籠《つづら》も序《ついで》に持《もっ》て帰《かえっ》て呉《く》れ。乃公《おれ》はもう着換《きがえ》が一、二枚あれば沢山《たくさん》だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫《そ》れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆《あき》れて仕舞《しま》い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上《のぼ》る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰《かえっ》てお母《ふくろ》さんにいい様《よう》がない。「なあに構うものか、乃公《おれ》は死《しに》も何もせぬから内《うち》のおッ母《か》さんに宜《よろ》しく云《いっ》て呉《く》れ、唯《ただ》江戸に参りましたと云《い》えば夫《そ》れで分る。鉄屋《くろがねや》も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公《おれ》は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知《しっ》てる船宿《ふなやど》はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門《せんばやすぐえもん》と云う船宿があります、其処《そこ》へお入来《いで》なされば宜しいと云う。抑《そ》もこの事を態々《わざわざ》鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中《かいちゅう》に金がない。内から呉れた金が一|歩《ぶ》もあったか、その外《ほか》に和蘭《オランダ》の字引の訳鍵《やくけん》と云う本を売《うっ》て、掻集《かきあつ》めた所で二|歩《ぶ》二|朱《しゅ》か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何《どう》しても船賃が足らぬと云う見込《みこみ》だから、そこで一寸《ちょい》と船宿の名を聞《きい》て置《おい》て、夫《そ》れから鉄屋に別れて、諫早《いさはや》から丸木船《まるきぶね》と云う船が天草《あまくさ》の海を渡る。五百八十|文《もん》出してその船に乗れば明日《あした》の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗《のっ》た所が、浪風《なみかぜ》なく朝佐賀に着《つい》て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々《しゅくじゅく》の順も知らずに、唯《ただ》東の方に向《むい》て、小倉《こくら》には如何《どう》行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分|太宰府《だざいふ》の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着《つい》た。
贋手紙を作る
その間《あいだ》の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊《こと》に何処《どこ》の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若《も》し行倒《ゆきだおれ》になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪《よしあし》は択《えら》ぶに暇《いとま》なく、只《ただ》泊めて呉れさえすれば宜しいと云《い》うので無暗《むやみ》に歩行《ある》いて、何《どう》か斯《こう》か二晩|泊《とま》って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即《すなわ》ち鉄屋《くろがねや》惣兵衛の贋《にせ》手紙を拵《こしら》えて、「この御方《おかた》は中津の御家中《ごかちゅう》、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入《でいり》して決して間違《まちがい》なき御方《おんかた》だから厚く頼むと鹿爪《しかつめ》らしき手紙の文句で、下ノ関|船場屋寿久右衛門《せんばやすぐえもん》へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日《あす》下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉《こくら》までたどり付て泊《とま》った時はおかしかった。彼方此方《あっちこっち》マゴマゴして、小倉|中《じゅう》、宿を捜《さが》したが、何処《どこ》でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉《く》れた所が薄汚ない宿屋で、相宿《あいやど》の同間《どうま》に人が寝て居る。スルト夜半《よなか》に枕辺《まくらもと》で小便する音がする。何だと思うと中風病《ちゅうふうやみ》の老爺《おやじ》が、しびんに遣《やっ》てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪《たま》らなかったのは能《よ》く覚えて居ます。
それから下ノ関の渡場《わたしば》を渡て、船場屋《せんばや》を捜《さが》し出して、兼て用意の贋《にせ》手紙を持《もっ》て行《いっ》た所が、成程《なるほど》鉄屋《くろがねや》とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速《さっそく》泊めて呉《く》れて、万事|能《よ》く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱《いちぶにしゅ》、賄《まかない》の代は一日|若干《いくら》、ソコデ船賃を払うた外《ほか》に二百文か三百文しか残らぬ。併《しか》し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是《こ》れも船宿《ふなやど》で心能《こころよ》く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
馬関の渡海
小倉《こくら》から下ノ関に船で来る時は怖い事がありました。途中に出た所が少し荒く風が吹《ふい》て浪《なみ》が立《たっ》て来た。スルトその纜《つな》を引張《ひっぱっ》て呉れ、其方《そっち》の処を如何《どう》して呉れと、船頭《せんどう》が何か騒ぎ立て乗組《のりくみ》の私に頼むから、ヨシ来たと云《い》うので纜を引張たり柱を起したり、面白半分に様々|加勢《かせい》をして先《ま》ず滞《とどこお》りなく下ノ関の宿に着《つい》て、「今日の船は如何《どう》したのか、斯《こ》う/\云う浪風《なみかぜ》で、斯う云う目に遇《あっ》た、潮《しお》を冠《かぶ》って着物が濡れたと云うと、宿の内儀《かみ》さんが「それはお危ない事じゃ、彼《あ》れが船頭なら宜《よ》いが実は百姓です。この節|暇《ひま》なものですから内職にそんな事をします。百姓が農業の間《あいだ》に慣れぬ事をするから、少し浪風があると毎度大きな間違いを仕出来《しでか》しますと云うのを聞《きい》て、実に怖かった。成程|奴等《やつら》が一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。
馬関より乗船
夫《そ》れから船場屋寿久右衛門《せんばやすぐえもん》の処から乗《のっ》た船には、三月の事で皆|上方《かみがた》見物、夫れは/\種々《しゅじゅ》様々な奴が乗て居る。間抜《まぬ》けな若旦那も乗て居れば、頭の禿《はげ》た老爺《じじい》も乗て居る、上方辺《かみがたへん》の茶屋女《ちゃやおんな》も居れば、下ノ関の安女郎《やすじょろう》も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃《そろ》うて、其奴等《そいつら》が狭い船の中で、酒を飲み、博奕《ばくち》をする。下《くだ》らぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で取付端《とっつきは》がない。船は安芸《あき》の宮島《みやじま》へ着《つい》た。私は宮島に用はない。唯《ただ》来たから唯島を見に上《あが》る。外《ほか》の連中《れんじゅう》はお互に朋友だから宜《い》いだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて堪《たま》らぬけれども、金がないから只《ただ》宮島を見たばかりで、船に帰《かえっ》て来てむしゃ/\船の飯《めし》を喰《くっ》てるから、船頭《せんどう》もこんな客は忌《い》やだろう、妙な顔をして私を睨《にら》んで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋《きんたいばし》も余儀《よぎ》なく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の金比羅《こんぴら》様だ。多度津《たどつ》に船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。外《ほか》の奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。爾《そ》うすると一晩《ひとばん》泊《とまっ》て、どいつもこいつもグデン/\に酔《よっ》て陽気になって帰て来る。癪《しゃく》に障《さわ》るけれども何としても仕様《しよう》がない。
明石より上陸
爾《そ》う云《い》う不愉快な船中で、如何《どう》やら斯《こ》うやら十五日目に播州|明石《あかし》に着《つい》た。朝五ツ時、今の八時頃、明旦《あした》順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中《れんじゅう》のお供をしては際限がない。是《こ》れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公《おれ》は是《こ》れから大阪まで歩いて行く。就《つい》ては是迄《これまで》の勘定《かんじょう》は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭《せんどう》が中々聞かない。「爾う旨《うま》くは行かぬ、一切勘定を払《はらっ》て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗《さらさ》の着物と絹紬《けんちゅう》の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持《もっ》て居るから、「茲《ここ》に着物が二枚ある、是れで賄《まかない》の代|位《ぐらい》はあるだろう、外《ほか》に書籍《ほん》もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を預《あず》ければ宜《よ》いが、是れは挟《さ》して行かねばならぬ。何時《いつ》でも宜《よろ》しい、船が大阪に着《ちゃく》次第《しだい》に中津屋敷で払て遣《や》るから取りに来いと云うも、船頭は頑張《がんばっ》て承知しない。「中津屋敷は知《しっ》てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗《のっ》て行きなさい。賄の代金は大阪で請取《うけと》ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日《なんか》掛《かかっ》ても構わぬ、途中から上《あが》ることは出来ぬと云う。此方《こっち》は只管《ひたすら》頼むと小さくなって訳《わ》けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張《はっ》て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人《あきんど》風の男が出て来て、乃公が請合《うけあ》うと先《ま》ず発言して船頭に向い、「コレお前も爾《そ》う、いんごうな事を云《い》うものじゃない。賄代《まかないだい》の抵当《かた》に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を騙《だま》す所存《つもり》ではないように見受ける。若し騙したら乃公《おれ》が払う、サアお上《あが》りなさいと云《いっ》て、船頭も是《こ》れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述《のべ》て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。
そこで明石から大阪まで十五里の間《あいだ》と云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚《とて》も一晩|泊《とま》ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何と云《い》う処か知らぬが、左側の茶店《ちゃみせ》で、一合《いちごう》十四文の酒を二合飲んで、大きな筍《たけのこ》の煮たのを一皿と、飯を四、五杯|喰《くっ》て、夫《そ》れからグン/″\歩いて、今の神戸|辺《あたり》は先だか後《あと》だか、どう通《とおっ》たか少しも分《わか》らぬ。爾《そ》うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川《いくつ》も渡《わたっ》て、有難《ありがた》い事にお侍だから船賃は只《ただ》で宜《よ》かったが、日は暮れて暗夜《やみよ》で真暗《まっくら》、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、夜中《やちゅう》淋《さび》しい処で変な奴に逢えば却《かえっ》て気味が悪い。その時私の指してる大小は、脇差《わきざし》は祐定《すけさだ》の丈夫な身《み》であったが、刀は太刀作《たちづく》りの細身《ほそみ》でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を云《い》えば大阪近在に人殺しの無暗《むやみ》に出る訳《わ》けもない、ソンナに怖がる事はない筈《はず》だが、独《ひとり》旅の夜道、真暗ではあるし臆病神《おくびょうがみ》が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却《かえっ》て危ない事だと思う。ソレカラ始終《しじゅう》道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪|堂島《どうじま》玉江橋《たまえばし》と云《い》うことを知《しっ》てるから、唯《ただ》大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着《つい》て兄に逢《あっ》たが、大変に足が痛かった。
大阪着
大阪に着て久振《ひさしぶり》で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山《たくさん》ある。私は三歳の時に国に帰《かえっ》て二十二歳に再び行《いっ》たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面《かお》が何処《どこ》か幼顔《おさながお》に肖《に》て居ると云うその中《うち》には、私に乳を呑《の》まして呉《く》れた仲仕《なかし》の内儀《かみ》さんもあれば、又|今度《こんど》兄の供をして中津から来て居る武八《ぶはち》と云う極《ごく》質朴な田舎男《いなかおとこ》は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守《もり》をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身《おりゃ》夜中《よなか》にこの横町《よこちょう》の彼《あ》の産婆《ばば》さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身《おりゃ》お前をだいて毎日々々|湊《みなと》の部屋(勧進元《かんじんもと》)に相撲の稽古を見に行《いっ》た、その産婆さんの家《うち》は彼処《あすこ》じゃ湊の稽古場は此処《こっち》の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧《むかし》を懐《おも》うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都《すべ》て如斯《こん》な訳《わ》けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰《かえっ》た通りで誠に宜《い》い心地《こころもち》。それから兄が私に如何《どう》して貴様《きさま》は出し抜けに此処《ここ》に来たのかという。兄の事であるから構わず斯《こ》う云《い》う次第で参りましたと云《いっ》たら、「乃公《おれ》が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母《か》さんの処を避《よけ》て来たではないか。それも乃公《おれ》が此処に居なければ兎《と》も角《かく》、乃公が此処で貴様に面会しながら之《これ》を手放《てばな》して江戸に行《ゆ》けと云えば兄弟共謀だ。如何《いか》にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程《それほど》に思わぬだろうが、如何《どう》しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜《さが》したら緒方《おがた》と云う先生のある事を聞出《ききだ》した。
長崎遊学中の逸事
鄙事多能《ひじたのう》は私の独得《どくとく》、長崎に居る間《あいだ》は山本先生の家に食客生《しょっかくせい》と為《な》り、無暗《むやみ》に勉強して蘭学も漸《ようや》く方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生|家《か》の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引請《ひきう》けて、是《こ》れは出来ない、其《そ》れは忌《いや》だと云《いっ》たことはない。丁度《ちょうど》上方辺《かみがたへん》の大地震《おおじしん》のとき、私は先生家の息子に漢書の素読《そどく》をして遣《やっ》た跡で、表の井戸端で水を汲《く》んで、大きな荷桶《にない》を担《かつ》いで一足《ひとあし》跡出《ふみだ》すその途端にガタ/″\と動揺《ゆれ》て足が滑《すべ》り、誠に危ない事がありました。
寺の和尚、今は既《すで》に物故《ぶっこ》したそうですが、是《こ》れは東本願寺の末寺《まつじ》、光永寺《こうえいじ》と申して、下寺《したでら》の三ヶ寺も持《もっ》て居る先《ま》ず長崎では名のある大寺《おおでら》、そこの和尚が京に上《のぼ》って何か立身して帰《かえっ》て来て、長崎の奉行所に廻勤《かいきん》に行くその若党《わかとう》に雇われてお供をした所が、和尚が馬鹿に長い衣《ころも》か装束か妙なものを着て居て、奉行所の門で駕籠《かご》を出ると、私が後《あと》からその裾《すそ》を持てシヅ/″\と附いて歩いて行《ゆ》く。吹出《ふきだ》しそうに可笑《おか》しい。又その和尚が正月になると大檀那《だいだんな》の家に年礼《ねんれい》に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも飲《のん》でる供待《ともまち》の間《あいだ》に、供の者にも膳を出して雑煮《ぞうに》など喰《く》わせる。是れは難有《ありがた》く戴《いただ》きました。
又|節分《せつぶん》に物貰《ものもら》いをしたこともある。長崎の風《ふう》に、節分の晩に法螺《ほら》の貝を吹《ふい》て何か経文《きょうもん》のような事を怒鳴《どな》って廻《ま》わる、東京で云《い》えば厄払《やくはら》い、その厄払をして市中の家の門《かど》に立てば、銭《ぜに》を呉《く》れたり米を呉れたりすることがある。所が私の居る山本の隣家《りんか》に杉山松三郎《すぎやままつさぶろう》(杉山|徳三郎《とくさぶろう》の実兄)と云う若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないかと私を誘うから、勿論《もちろん》同意。ソレカラ何処《どこ》かで法螺《ほら》の貝を借りて来て、面《かお》を隠して二人《ふたり》で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦《あんしょう》して居《い》た蒙求《もうぎゅう》の表題と千字文《せんじもん》で請持《うけも》ち、王戎簡要《おうじゅうかんよう》天地玄黄《てんちげんこう》なんぞ出鱈目《でたらめ》に怒鳴《どな》り立てゝ、誠に上首尾、銭《ぜに》だの米だの随分相応に貰《もらっ》て来て、餅を買い鴨を買い雑煮《ぞうに》を拵《こしら》えてタラフク喰《くっ》た事がある。
師弟アベコベ
私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云《い》うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫《まつざきていほ》と云う人がある。その時に藩主|薩摩守《さつまのかみ》は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰《もら》うが宜《よ》かろうと云うので行《いっ》た所が、松崎が abc[#「abc」は斜体] を書いて仮名を附けて呉《く》れたのには先《ま》ず驚いた。是《こ》れが文字とは合点《がてん》が行《ゆ》かぬ。二十|何字《なんじ》を覚えて仕舞《しま》うにも余程手間が掛《かかっ》たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴《つづり》も分《わか》るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相《にんそう》を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依《よっ》て私の心中|窃《ひそか》に、「是《こ》れは高《たか》の知れた人物だ。今でも漢書を読《よん》で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭|等《ひと》しく字を読み義を解することゝすれば、左《さ》までこの先生を恐るゝことはない。如何《どう》かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々《なまなま》の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗《すこぶ》る速くて、両三年の間《あいだ》に同窓生八、九十人の上に頭角《あたま》を現わした。所が人事の廻《まわ》り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入《はい》り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭《かいとう》をして居るその会読《かいどく》に、松崎も出席することになって、三、四年の間《あいだ》に今昔《こんせき》の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固《もと》より人には云《い》われず、又云うべきことでないから黙《だまっ》て居たが、その時の愉快は堪《たま》らない。独《ひと》り酒を飲《のん》で得意がって居ました。左《さ》れば軍人の功名《こうみょう》手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰《いず》れも熱心で、一寸《ちょい》と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張《やは》り同じことで、世間|並《なみ》に俗な馬鹿毛《ばかげ》た野心があるから可笑《おか》しい。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
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