初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
老余の半生
仕官を嫌う由縁
私の生涯は終始《しゅうし》替《かわ》ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗《な》めて、今日に至るまで大に愧《はじ》ることもなく大に後悔することもなく、心《こころ》静《しずか》に月日を送りしは、先《ま》ず以《もっ》て身の仕合《しあわ》せと云《い》わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中《なかんずく》私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分《ずいぶん》知て居ながら、遂《つい》に政府の役人にならぬと云《い》うは可笑《おか》しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその処《ところ》に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、蔭《かげ》で窃《ひそか》に評論する計《ばか》りでない、現に直接に私に向《むかっ》て質問する者もある。啻《ただ》に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故《なぜ》政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に立《たっ》て思う事を行えば、名誉にも為《な》り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は唯《ただ》笑《わらっ》て取合《とりあ》わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、彼《あ》れは旧幕府に操《みさお》を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を悦《よろこ》んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と云《い》う者があるが、福澤もその遺臣を気取《きどっ》て、物外に瓢然《ひょうぜん》として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに違《ちが》いない、心に不平があれば新政府の為《た》めに宜《よ》いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を運《めぐ》らして居る者の多いのは、私も大抵《たいてい》知《しっ》て居る。所が斯《か》く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛《さか》んに忠義論を論じて佐幕の気焔《きえん》を吐《はい》て脱走までする時に、私は強《しい》て議論もせず、脱走連中に知《しっ》て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから罷《よし》にしろと云《いい》て止《と》めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度《ちょうど》適当の嵌役《はまりやく》なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、是《こ》れも遺臣と云《い》われぬ。その遺臣論は姑《しばら》く擱《さしお》き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌《きらい》だから佐幕の気がない。左《さ》ればとて勤王家の挙動《きどう》[#ルビの「きどう」はママ]を見れば、幕府に較《くら》べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固《もと》よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、唯《ただ》ジッと中立独立と説を極《き》めて居ると、今度の新政府は開国に豹変《ひょうへん》した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北|何《いず》れを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独《ただひと》りで身に叶う丈《だ》けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一天[#「天」に「〔点〕」の注記]張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成《ほんとう》のものになって来て、一切《いっさい》万事改進ならざるはなし、所謂《いわゆる》文明|駸々乎《しんしんこ》として進歩するの世の中になったこそ実に有《あ》り難《がた》い仕合《しあわ》せで、実に不思議な事で、云《い》わば私の大願も成就したようなものだから、最早《もは》や一点の不平は云われない。
問題更らに起る
ソコで私の身の進退に就《つい》ても更らに問題が起る。是《こ》れまで新政府に出身しなかったのは、政府が鎖国攘夷の主義であるから之《これ》を嫌うたのだ、仮令《たと》い開国と触出《ふれだ》してもその内実は鎖攘の根性、信ずるに足らずと見縊《みくびっ》たのである、然《しか》るに政府の方針がいよ/\開国文明と決して着々事実に顕《あら》わるゝに於《おい》ては、官界に力を尽して政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないかと世間の人の思うのは、一寸《ちょい》と尤《もっと》ものように見えるが、この一段になってもマダ私に動く気がない。
殻威張の群に入るべからず
従前《これまで》曾《かつ》て人に語らず、又《また》語る必要もないから黙《だまっ》て居て、内の妻子も本当に知りますまいが、私の本心に於《おい》て何としても仕官が出来られないその真面目《しんめんぼく》を丸出しに申せば、第一、政府がその方針を開国文明と決定《けってい》して大《おおい》に国事を改革すると同時に、役人達が国民に対して無暗に威張《いば》る、その威張るのも行政上の威厳と云えば自《おのず》から理由もあるが、実際は爾《そ》うでない、唯《ただ》殻威張《からいばり》をして喜んで居る。例えば位記などは王政維新、文明の政治と共に罷《や》めそうなことを罷めずに、人間の身に妙な金箔を着けるような事をして、日本国中いらざる処に上下貴賤の区別を立てゝ、役人と人民と人種の違うような細工をして居る。既《すで》に政府が貴《たっと》いと云《い》えば政府に入る人も自然に貴くなる、貴くなれば自然に威張るようになる、その威張りは即《すなわ》ち殻《から》[#ルビの「から」は底本では「かつ」]威張で、誠に宜《よろ》しくないと知りながら、何《なに》も蚊《か》も自然の勢《いきおい》で、役人の仲間になれば何時《いつ》の間にか共に殻威張を遣《や》るように成り行く。然《し》かのみならず、自分より下に向《むかっ》て威張れば上に向ては威張られる。鼬《いたち》こっこ鼠《ねずみ》こっこ、実に馬鹿らしくて面白くない。政府に這入りさえせねば馬鹿者の威張るのを唯見物して唯|笑《わらっ》て居る計《ばか》りなれども、今の日本の風潮で、役人の仲間になれば、仮令《たと》い最上の好地位に居ても兎《と》に角《かく》に殻威張《からいばり》と名づくる醜体《しゅうたい》を犯さねばならぬ。是《こ》れが私の性質に於《おい》て出来ない。
身の不品行は人種を殊にするが如し
之《これ》を第一として、第二には甚《はなは》だ申し憎いことだが、役人全体の風儀を見るに気品が高くない。その平生美衣美食、大きな邸宅に住居して散財の法も奇麗で、万事万端|思切《おもいき》りが能《よ》くて、世に処し政《まつりごと》を料理するにも卑劣でない、至極《しごく》面白い気風であるが、何分にも支那流の磊落《らいらく》を気取て一身の私を慎《つつ》しむことに気が付かぬ。動《やや》もすれば酒を飲んで婦人に戯《たわぶ》れ、肉慾を以《もっ》て無上の快楽事として居るように見える。家の内外に妾《しょう》などを飼うて、多妻の罪を犯しながら恥かしいとも思わず、その悪事を隠そうともせずに横風《おうふう》な顔をして居るのは、一方に西洋文明の新事業を行い、他の一方には和漢の旧醜体を学ぶものと云《い》わねばならぬ。ダカラ外《ほか》の事を差置《さしおい》てこの一点に就《つい》て見れば、何だか一段|下《さがっ》た下等人種のように見える。是《こ》れも世の中の流俗として遠方から眺めて居れば左《さ》まで憎らしくもなく又|咎《とが》めようとも思わぬ、時に往来して用事も語り談笑妨げなけれども、扨《さて》いよ/\この人種の仲間になって一つ竈《かまど》の飯《めし》を喰《く》い本当に親しく近くなろうと云《い》うには、何処《どこ》となく穢《きた》ないように汚れたように思われてツイ嫌《いや》になる。是れは私の潔癖とでも云うようなもので、全体を申せば度量の狭いのでしょうが、何分にも生れつきの性質とあれば仕方《しかた》がない。
忠臣義士の浮薄を厭う
第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に立分《たちわか》れて居るその時に、私は唯《ただ》古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、固《もと》より幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して仕舞《しま》うが宜《よ》いと不断|気焔《きえん》を吐《はい》て居たが、左《さ》ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も劇《はげ》しいから、固よりコンな連中に心を寄せる筈《はず》はない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて帰《かえっ》て来た。スルと幕府の人は勿論《もちろん》、諸方の佐幕連が中々|喧《やかま》しくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして棄《す》つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯|是《こ》れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる三河《みかわ》譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、大造《たいそう》な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に邀《むか》え撃《うた》んとする者もあれば、軍艦を以《もっ》て脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争《かんそう》の極《きょく》、声を放《はなっ》て号泣するなんぞは、如何《いか》にもエライ有様《ありさま》で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦に乗《のっ》て箱館《はこだて》に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と云《いっ》て、東京で出来た物は菓子も喰《く》わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚《けが》れる、話を聞けば耳が汚れると云《い》う塩梅《あんばい》式は、丸で今世の伯夷《はくい》、叔斉《しゅくせい》、静岡は恰《あたか》も明治初年の首陽山《しゅようざん》であったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山に蕨《わらび》の乏しいのを感じたか、ソロ/\山の麓《ふもと》に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体《からだ》を丸出《まるだし》にして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も杓子《しゃくし》も政府の辺に群れ集《あつまっ》て、以前の賊徒今の官員衆に謁見、是《こ》れは初めて御目《おめ》に掛るとも云《い》われまい、兼て御存じの日本臣民で御座《ござ》ると云うような調子で、君子は既往を語らず、前言《ぜんげん》前行《ぜんこう》は唯《ただ》戯《たわぶ》れのみと、双方打解けて波風《なみかぜ》なく治まりの付《つい》たのは誠に目出度《めでた》い、何も咎《とがめ》立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。抑《そ》も王政維新の争《あらそい》が、政治主義の異同から起《おこっ》て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂《つい》に幕府の敗北と為《な》り、その後に至《いたっ》て勤王家も大《おおい》に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、之《これ》と共に爾後《じご》の方針を与《とも》にすると云えば至極《しごく》尤《もっと》もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰《さた》は少しもない。佐幕家の進退は一切《いっさい》万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下|云々《うんぬん》と争いながら、その天下が無くなったら争《あらそい》の点も無くなって平気の平左衛門《へいざえもん》とは可笑《おか》しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば固《もと》より宜《よろ》しいが、争論の発起人で頻《しき》りに忠義論を唱えて伯夷《はくい》叔斉《しゅくせい》を気取り、又はその身《み》躬《みず》から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に由《よ》る、負けても恥かしいことはない、議論が中《あた》らなかっても構わないが、遣傷《やりそこ》なったらその身の不運と諦らめて、山に引込《ひきこ》むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜《よ》いと思えども、中々|以《もっ》て坊主どころか、洒蛙々々《しゃあしゃあ》と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に喰《く》わぬ。扨《さて》々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな薄《うすっ》ぺらな人間と伍を為《な》すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を極《き》めて、初一念を守り、政治の事は一切《いっさい》人に任せて、自分は自分だけの事を勉《つと》めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を能《よ》く知《しっ》て居るから、忠臣義士の成行《なりゆき》を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと思《おもっ》ても思われて堪《たま》らない。全く私の癇癪《かんしゃく》でしょうが、是《こ》れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
独立の手本を示さんとす
第四には、勤王佐幕など云《い》う喧《やかま》しい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字《もんじ》でも分る奴は皆役人になりたいと云う。仮令《たと》い役人にならぬでも、兎《と》に角《かく》に政府に近づいて何か金儲でもしようと云う熱心で、その有様《ありさま》は臭い物に蠅《はえ》のたかるようだ。全国の人民、政府に依らねば身を立てる処のないように思うて、一身独立と云《い》う考《かんがえ》は少しもない。偶《たまた》ま外国修業の書生などが帰《かえっ》て来て、僕は畢生《ひっせい》独立の覚悟で政府仕官は思いも寄らぬ、なんかんと鹿爪《しかつめ》らしく私方へ来て満腹の気焔《きえん》を吐く者は幾らもある。私は最初から当てにせずに宜《い》い加減に聞流して居ると、その独立先生が久しく見えぬ。スルと後に聞けばその男はチャンと何省の書記官に為《な》り、運の好《い》い奴は地方官になって居ると云うような風《ふう》で、何も之《これ》を咎《とが》めるではない、人々の進退はその人の自由自在なれども、全国の人が唯《ただ》政府の一方を目的にして外《ほか》に立身の道なしと思込《おもいこ》んで居るのは、畢竟《ひっきょう》漢学教育の余弊で、所謂《いわゆる》宿昔《しゅくせき》青雲の志と云うことが先祖以来の遺伝に存して居る一種の迷《まよい》である。今この迷を醒《さ》まして文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい、亦《また》自《おのず》からその方針に向う者もあるだろう、一国の独立は国民の独立心から湧《わい》て出てることだ、国中を挙げて古風の奴隷根性では迚《とて》も国が持てない、出来ることか出来ないことかソンな事に躊躇《ちゅうちょ》せず、自分がその手本になって見ようと思付《おもいつ》き、人間万事|無頓着《むとんじゃく》と覚悟を定《き》めて、唯独立独歩と安心|決定《けつじょう》したから、政府に依りすがる気もない、役人達に頼む気もない。貧乏すれば金を使わない、金が出来れば自分の勝手に使う。人に交わるには出来る丈《だ》けの誠を尽して交わる、ソレでも忌《いや》と云《い》えば交わって呉《く》れなくても宜《よろ》しい。客を招待すれば此方《こっち》の家風の通りに心を用いて饗応する、その風が嫌いなら来て呉《く》れなくても苦しうない。此方《こっち》の身に叶う丈《だ》けを尽して、ソレから上は先方の領分だ。誉めるなり譏《そし》るなり喜ぶなり怒《いか》るなり勝手次第にしろ、誉められて左《さ》まで歓びもせず、譏られて左まで腹も立てず、いよ/\気が合わねば遠くに離れて附合わぬ計《ばか》りだ。一切《いっさい》万事、人にも物にもぶら下らずに、云《い》わば捨身になって世の中を渡るとチャンと説を定めて居るから、何としても政府へ仕官などは出来ない。この流儀が果して世の中の手本になって宜《い》い事か、悪い事か、ソレも無頓着《むとんじゃく》だ、宜《よ》ければ甚《はなは》だ宜《よろ》しい、悪るければソレまでの事だ、その先《さ》きまで責任を脊負《せお》い込もうとは思いません。
右の通り条目を並べて第一から第四まで述立《のべた》てゝ見れば、私の政府に出ないのは初めからチャンと理窟を定《き》めて箇様々々と自から自分を束縛してあるように見えるが、実はソレホド窮窟な訳《わ》けではない、ソレホド六《むず》かしい事でもない。唯《ただ》今日これを筆記して人に分るようにしようとするには、話に順序がなくては叶わぬ。ソコで久しい前年から今日に至るまで、物に触れ事に当り、人と談論した事などを思出して、彼の時はアヽであった、この時は斯《こ》うであったと、記憶中に往来するものを取集めて見ると、前に記した通りになる。詰《つま》る所、私は政治の事を軽く見て熱心でないのが政界に近づかぬ原因でしょう。喩《たと》えば人の性質に下戸《げこ》上戸《じょうご》があって、下戸は酒屋に入らず上戸は餅屋に近づかぬと云《い》う位のもので、政府が酒屋なら私は政事の下戸でしょう。
政治の診察医にして開業医に非ず
とは云うものゝ、私が政治の事を全く知らぬではない、口に談論もすれば紙に書きもする。但《ただ》し談論書記する計《ばか》りで、自《みず》からその事に当ろうと思わぬその趣《おもむき》は、恰《あたか》も診察医が病を診断してその病を療治しようとも思わず、又事実に於《おい》て療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は皆無《かいむ》素人《しろうと》でも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ世間の人も私の政治診断書を見て、是《こ》れは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろうと推察するのは大間違いの沙汰《さた》です。
明治十四年の政変
この事に就《つい》て一寸《ちょい》と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起《おこっ》て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政《せっせい》大隈《おおくま》、伊藤《いとう》、井上《いのうえ》の三人から私方に何か申して参《まいっ》て、或《あ》る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して呉《く》れろと云う。一向|趣意《しゅい》が分らぬから先《ま》ず御免と申して去ると、その後|度々《たびたび》人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞《しまい》に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の為《た》めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是《こ》れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと凡《およ》そ約束は出来たが、マダ何時《いつ》からと云う期日は定《さだ》まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と為《な》り、十四年も春去秋来《しゅんきょしゅうらい》、頓《とん》と埒《らち》の明かぬ様子なれども、此方《こっち》も左《さ》まで急ぐ事でないから打遣《うちやっ》て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前|至極《しごく》同主義でありし隈伊井の三人が漸《ようや》く不和になって、その果ては大隈《おおくま》が辞職することになりました。扨《さて》大隈の辞職は左《さ》まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随《したがっ》て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその後《うしろ》には、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎《いわさきやたろう》が金主になって既《すで》に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻《ふれま》わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂《いわゆる》儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風《ふう》になって来て、その風《ふう》が全国の隅々までも靡《なび》かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。凡《およ》そ当時の政変は政府人の発狂とでも云《い》うような有様《ありさま》で、私はその後|岩倉《いわくら》から度々《たびたび》呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも六《むず》かしいなんかんと話すのを聞けば、余程《よほど》騒いだものと察しられる。実に馬鹿気《ばかげ》たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると云《いっ》て案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向《しむ》けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に逐出《おいだ》したり、マダ夫《そ》れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、是《こ》れ見よがしに殻威張《からいばり》を遣《やっ》て居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ先《さ》きに角突合いになって居るから可笑《おか》しい。十四年の真面目《しんめんもく》の事実は、私が詳《つまびらか》に記して家に蔵めてあるけれども、今|更《さ》ら人の忌《いや》がる事を公けにするでもなし黙《だまっ》て居ますが、そのとき私は寺島《てらしま》と極|懇意《こんい》だから何も蚊《か》も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌《しゃべ》って廻ると政府の中に随分《ずいぶん》困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めて聞《きい》て驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分|穢《きたな》いものとは云《い》いながら、是《こ》れはアンマリ酷《ひど》い。少し捩《ねじ》くって遣ても宜《よ》いじゃないかと、態《わざ》と勧めるような風《ふう》であったけれども、私は夫《そ》れ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、先《ま》ず/\ソンナ無益な殺生は罷《やめ》にしようと云《いっ》て、笑《わらっ》て分れたことがある。
保安条例
コンな訳で、私は十四年の政変のその時から、何も実際に関係はない、俗界に云《い》う政治上の野心など思《おもい》も寄らぬ事だから誠に平気で、唯《ただ》他人のドタバタするのを見物して居るけれども、政府の目を以《もっ》てこの見物人を見れば、又不思議なもので、色々な姿に写ると見える。明治何年か保安条例の出たとき、私もこの条例の科人《とがにん》になって東京を逐出《おいだ》されると云う風聞。ソレはその時塾に居た小野友次郎《おのともじろう》が警視庁に懇意《こんい》の人があって、極内々その事を聞出して、私と同時に後藤象次郎《ごとうしょうじろう》も共に放逐《ほうちく》と確《たしか》に云うから、「ナニ殺されるではなし、イザと云えば川崎辺まで出て行けば宜《よ》いと申して居る中、その翌日か翌々日か小野《おの》が又《また》来て、前の事は取消しになったと云《い》うので事は済《す》みました。又その後明治二十年頃かと思う、井上角五郎《いのうえかくごろう》が朝鮮で何とやらしたと云うので捕《とら》えられて、その時の騒動と云うものは大変で、警察の役人が来て私方の家捜しサ。夫《それ》から井上が何か吟味に逢うて、福澤諭吉に証人になって出て来いと云《いっ》て、私を態々《わざわざ》裁判所に呼出《よびだ》して、タワイもない事を散々|尋《たずね》て、ドウかしたら福澤も科人《とがにん》の仲間にしたいと云うような風《ふう》が見えました。都《すべ》てコンな事は唯《ただ》大間違《おおまちがい》で、私の身には何ともない。却《かえっ》て世の中の人心の動くその運動の方向緩急を視察して面白く思《おもっ》て居るが、又一歩を進めて虚心平気《きょしんへいき》に考うれば、私が兎角《とかく》政界の人に疑われると云うのも全く無理はない。第一私は何としても役人になる気がない、是《こ》れは世間に例の少ない事で、仕官流行、熱中奔走の世の中に、独《ひと》りこれが嫌いと云えば、一寸《ちょい》と見て不審を起さねばならぬ。ソレもいよ/\官途に気がないとならば田舎にでも引込《ひっこ》んで仕舞《しま》えば宜《い》いに、都会の真中に居て然《し》かも多くの人に交際して、口も達者に筆もまめに、洒蛙々々《しゃあしゃあ》と饒舌《しゃべっ》たり書《かい》たりするから、世間の目に触れ易《やす》く、随《したがっ》て人に不審を懐《いだ》かせるのも自然の勢《いきおい》である。
一片の論説能く天下の人心を動かす
之《これ》を第一として、モ一つ本当の事を云うと、私の言論を以《もっ》て政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えば是《こ》れまで頓《とん》と人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も片付《かたづい》て後、世の中は静になって、人間が却《かえっ》て無事に苦しむと云《い》うとき、私が不図《ふと》思付《おもいつい》て、是《こ》れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう、随分《ずいぶん》面白かろうと思《おもっ》て、ソレからその論説を起草して、マダその時には時事新報と云うものはなかったから、報知新聞の主筆|藤田茂吉《ふじたもきち》、箕浦勝人《みのうらかつんど》にその草稿を見せて、「この論説は新聞の社説として出されるなら出して見なさい、屹《きっ》と世間の人が悦《よろこ》ぶに違いない。但《ただ》しこの草稿のまゝに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆と云うことが分るから、文章の趣意《しゅい》は無論、字句までも原稿の通りにして、唯《ただ》意味のない妨げにならぬ処をお前達の思う通りに直して、試《こころ》みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云《い》うと、年の若い元気の宜《い》い藤田《ふじた》、箕浦《みのうら》だから、大《おおい》に悦んで草稿を持《もっ》て帰《かえっ》て、早速《さっそく》報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果して人気に投ずるやら、又《また》は何でもない事になって仕舞《しま》うやら、頓《とん》と見込みが付かぬ。凡《およ》そ一週間ばかり毎日のように社説欄内を填《うず》めて、又藤田、箕浦が筆を加えて東京の同業者を煽動《せんどう》するように書立《かきた》てゝ、世間の形勢|如何《いかん》と見て居た所が、不思議なる哉《かな》、凡《およ》そ二、三ヶ月も経《た》つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧《やかま》しくなって来て、遂《つい》には例の地方の有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考《かんがえ》直して見れば、仮令《たと》い文明進歩の方針とは云《い》いながら、直《ただち》に自分の身に必要がなければ物数寄《ものずき》と云《い》わねばならぬその物数寄な政治論を吐《はい》て、図《はか》らずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、恰《あたか》も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。併《しか》し国会論の種は維新の時から蒔《まい》てあって、明治の初年にも民選議院|云々《うんぬん》の説もあり、その後とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図《ふと》した事で私が筆を執《とっ》て、事の必要なる理由を論じて喋々喃々《ちょうちょうなんなん》数千言、噛《か》んでくゝめるように言《いっ》て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論《よろん》が一時に持上《もちあがっ》て来たから、如何《どう》しても報知新聞の論説が一寸《ちょい》と導火《くちび》になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達《せんだって》箕浦《みのうら》に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して呉《く》れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書《かき》並べて、一寸《ちょい》と辻褄《つじつま》が合《あっ》て居ます。是《こ》れが今の帝国議会を開く為《た》めの加勢になったかと思えば自分でも可笑《おか》しい。シテ見ると先《さ》きの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんと云《い》われて、その後も兎角《とかく》私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは云《い》いながら、間接には自《おのず》から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為《た》めに利益なればこそ善《よ》けれ、是《こ》れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免《まぬ》かれても死後|閻魔《えんま》の庁で酷《ひど》い目に逢う筈《はず》でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に就《つい》て私の言行は都《すべ》てコンな塩梅《あんばい》式で、自分の身の私に利害はない所謂《いわゆる》診察医の考《かんがえ》で、政府の地位を占めて自《みず》から政権を振廻《ふりま》わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何《どう》でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと計《ばか》り、夫《そ》れが大本願で、自分独り自分の身に叶う丈《だ》けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に安《やす》んじて平気で居るから、考《かんがえ》の違う役人達が私の平生を見たり聞《きい》たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に於《おい》て私は政府に対して少しも怨《うらみ》はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、是《こ》れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何《いか》なる憂き目に逢《あっ》て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜《たまもの》と思《おもっ》て喜んで居ます。
時事新報
ソレから明治十五年に時事新報と云《い》う新聞紙を発起しました。丁度《ちょうど》十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て頻《しき》りにこの事を勧める。私も亦《また》自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互《あいたがい》に敵味方が出来て議論は次第に喧《かまびす》しくなるに違いない。既《すで》に前年の政変も孰《いづ》れが是か非かソレは差置《さしお》き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\甚《はなは》だしい事になるであろう。この時に当て必要なるは所謂《いわゆる》不偏不党の説であるが、扨《さて》その不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれては迚《とて》も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中に聊《いささ》かながら独立の生計を成《な》して多少の文思《ぶんし》もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして恰《あたか》も物外に超然たる者は、※[#「口+烏」、U+55DA、389-1]呼《おこ》がましくも自分の外《ほか》に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、遂《つい》に決心して新事業に着手したものが即《すなわ》ち時事新報です。既《すで》に決断した上は友人中これを止《と》める者もありしが、一切《いっさい》取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令《たと》い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非《あら》ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以《もっ》て、世間の風潮に頓着《とんじゃく》なしに今日までも首尾|能《よ》く遣《やっ》て来たことですが、畢竟《ひっきょう》私の安心|決定《けつじょう》とは申しながら、その実は私の朋友には正直|有為《ゆうい》の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど云《い》う忌《いや》な心配は聊《いささ》かもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎《なかみがわひこじろう》が引受け、その後は伊藤欽亮《いとうきんすけ》、今は次男の捨次郎《すてじろう》が之《これ》に任じ、会計は本山彦一《もとやまひこいち》、次で坂田実《さかたみのる》、今は戸張志智之助《とばりしちのすけ》等が専《もっぱ》ら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目を聞《きい》たこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせて置《おい》て、曾《かつ》て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続する訳《わ》けでしょう。又|編輯《へんしゅう》の方に就《つい》て申せば、私の持論に、執筆者は勇を鼓《こ》して自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々|相対《あいたい》して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、如何《いか》なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、扨《さて》その相手の人に面会したとき自分の良心に愧《は》じて率直に陳《の》べることの叶わぬ事を書《かい》て居ながら、遠方から知らぬ風をして恰《あたか》も逃げて廻わるようなものは、之を名づけて蔭弁慶《かげべんけい》の筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論と為《な》り、罵言讒謗《ばりざんぼう》の毒筆と為《な》る、君子の愧《は》ずべき所なりと常に警《いま》しめて居ます。併《しか》し私も次第に年をとり、何時《いつ》までもコンな事に勉強するでもなし、老余は成る丈《た》け閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明《いしかわみきあき》、北川礼弼《きたがわれいすけ》、堀江帰一《ほりえきいち》などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々《ちょいちょい》加筆する位にして居ます。
事を為すに極端を想像す
扨《さて》これまで長々と話を続けて、私の一身の事、又私に関係した世の中の事をも語りましたが、私の生涯中に一番骨を折《おっ》たのは著書|飜訳《ほんやく》の事業で、是《こ》れには中々話が多いが、その次第は本年再版した福澤全集の緒言《ちょげん》に記してあれば之《これ》を略し、著訳の事を別にして、元来《がんらい》私が家に居《お》り世に処するの法を一括して手短《てみじか》に申せば、都《すべ》て事の極端を想像して覚悟を定《き》め、マサカの時に狼狽《ろうばい》せぬように後悔せぬようにと計《ばか》り考えて居ます。生きて居る身はいつ何時《なんどき》死ぬかも知れぬから、その死ぬ時に落付《おちつい》て静にしようと云《い》うのは誰も考えて居ましょう。夫《そ》れと同様に、例えば私が自身自家の経済に就《つい》ては、何としても他人に対して不義理はせぬと心に決定《けつじょう》して居るから、危い事を犯すことが出来ない。斯《こ》うすれば利益がある、爾《そ》うすれば金が出来るなど云《いっ》ても、危険を犯して失敗したときには必ず狼狽《ろうばい》することがあろう、後悔することがあろうと思《おもっ》て、手を出すことが出来ない。金を得て金を使うよりも、金がなければ使わずに居る。按摩|按腹《あんぷく》をしても餓えて死ぬ気遣《きづか》いはない、粗衣粗食などに閉口する男でないと力身込《りきみこ》んで居るような訳《わ》けで、私が経済上に不|活溌《かっぱつ》なのは失敗の極端を恐れて鈍くして居るのですが、その外《ほか》直接に一身の不義理にならぬ事に就ては必ずしも不活溌でない。トヾの詰り遣傷《やりそこ》なっても自身独立の主義に妨げのない限りは颯々《さっさつ》と遣《や》ります。例えば慶應義塾を開いて何十年来様々変化は多い。時としては生徒の減ることもあれば増《ふえ》ることもある。唯《ただ》生徒ばかりでない、会計上からして教員の不足することも度々《たびたび》でしたが、ソンな時にも払は少しも狼狽しない。生徒が散ずれば散ずるまゝにして置け、教員が出て行くなら行くまゝにして留めるな、生徒散じ教員|去《さっ》て塾が空屋《あきや》になれば、残る者は乃公《おれ》一人だ、ソコで一人の根気で教えられる丈《だ》けの生徒を相手に自分が教授して遣《や》る、ソレも生徒がなければ強《し》いて教授しようとは云《い》わぬ、福澤諭吉は大塾を開《ひらい》て天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない、塾の盛衰に気を揉《も》むような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟を定《き》めて、塾を開《ひらい》たその時から、何時《なんどき》でもこの塾を潰して仕舞《しま》うと始終《しじゅう》考えて居るから、少しも怖いものはない。平生は塾務を大切にして一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当に私の心事の真面目《しんめんもく》を申せば、この勉強心配は浮世の戯れ、仮りの相ですから、勉《つと》めながらも誠に安気です。近日は又慶應義塾の維持の為《た》めとて、本塾出身の先進輩が頻《しき》りに資金を募集して居ます。是《こ》れが出来れば斯《この》道《みち》の為《た》めに誠に有益な事で、私も大《おおい》に喜びますが、果して出来るか出来ないか、私は唯《ただ》静《しずか》にして見て居ます。又時事新報の事も同様、最初から是非とも永続させねばならぬと誓《ちかい》を立てた訳《わ》けでもなし、或《あるい》は倒れることもあろう、その時に後悔せぬようにと覚悟をして居るから、是れも左《さ》までの心配にならぬ。又私の著訳書に他人の序文を求めたことのないのも矢張り同じ趣意《しゅい》であると申すは、人の序文題字などを以《もっ》て出版書の信用を増すは自《おのず》から名誉でもあろうが、内実は発売を多くせんとするの計略と云《いっ》ても宜《よろ》しい。所が私の考《かんがえ》は左様《そう》でない。自分の著訳書が世間に流行すれば宜《よ》いと固《もと》より心の中に願いながらも、又《また》一方から考えて是《こ》れが全く売れなくても後悔はしないと、例の極端を覚悟して居るから、実際の役にも立たぬ余計な文字《もんじ》を人に書《かい》て貰《もらっ》たことはない。又他人に交わるの法もこの筆法に従い、私は若い時からドチラかと云《い》えば出しゃばる方で、交際の広い癖に、遂《つい》ぞ人と喧嘩をしたこともない。親友も甚《はなは》だ多いが、この交際に就《つい》ても矢張《やは》り極端説は忘れない。今日までこの通りに仲好く附合《つきあい》はして居るが、先方の人がいつ何時《なんどき》変心せぬと云《い》う請合は六《むず》かしい。若《も》し左様《そう》なれば交際は罷《や》めなければならぬ。交際を罷めても此方《こっち》の身に害を加えぬ限りは相手の人を憎むには及ばぬ、唯《ただ》近づかぬようにする計《ばか》りだ。コンな事で朋友が一人《ひとり》なくなり二人なくなり次第に淋しくなって、自分|独《ひと》り孤立するようになっても苦しうない、決して後悔しない、自分の節を屈して好かぬ交際は求めずと、少年の時から今に至るまでチャンと説は極《き》めてありながら、扨《さて》実際には頓《とん》とソンな必要はない。生来六十余年の間に、知る人の数は何千も何万もあるその中で、誰と喧嘩したことも義絶したこともないのが面白い。都《すべ》て斯《こ》う云う塩梅《あんばい》式で、私の流儀は仕事をするにも朋友に交わるにも、最初から棄身になって取《とっ》て掛り、仮令《たと》い失敗しても苦しからずと、浮世の事を軽く視《み》ると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るに左《さ》までの困難もなく、安気に今日まで消光《くら》して来ました。
身体の養生
扨《さて》又心の養生法は右の如《ごと》しとして、身の養生は如何《どう》だと申すに、私の身に極めて宜《よろ》しくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、然《し》かも図抜《ずぬ》けの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくても宜《い》いと云《い》う人があるが、私は左様《そう》でない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠に能《よ》く分る。先年中一樽の価《あたい》七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、先《ま》ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような黒人《くろうと》で、その上等の酒をウンと飲んで、肴《さかな》も良い肴を沢山《たくさん》喰《くら》い、満腹|飲食《のみくい》した跡で飯もドッサリ給《た》べて残す所なしと云う、誠に意地の穢《きた》ない所謂《いわゆる》牛飲馬食とも云うべき男である。尚《な》おその上に、この賤しむべき男が酒に酔《よっ》て酔狂でもすれば自から警《いまし》めると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えば唯《ただ》大きな声をして饒舌るばかり、遂《つひ》[#ルビの「つひ」はママ]ぞ人の気になるような忌《いや》がるような根性の悪いことを云《いっ》て喧嘩をしたこともなければ、上戸《じょうご》本性|真面目《まじめ》になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。是《こ》れが却《かえっ》て不幸で、本人は宜《い》い気になって、酒とさえ云《い》えば一番|先《さ》きに罷出《まかりで》て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\も愧《はず》かしい事であるが、酒の事を除《のぞい》てその外《ほか》になれば、私は少年の時から宜《い》い加減な摂生家と云《いっ》ても宜《よろ》しい。何も別段に摂生をしようなんてソンな六《むず》かしい考《かんがえ》のあろうようもないが、日に三度の食事の外《ほか》にメッタに物を食わない。或《あるい》は母が給《た》べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。殊《こと》に晩食の後、夜になれば如何《いか》なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜を更《ふ》かすとかして、自然に其処《そこ》に食物が出て来ても食う気にならぬ。是《こ》れは母に仕込まれた習慣が生涯|残《のこっ》て居るのでしょう。摂生の為《た》めには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早く遣《や》ると云《い》う風《ふう》で、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように変化《へんげ》して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯《はやめし》と何とやらは武士の嗜《たしなみ》なんと云《いっ》て、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいと思《おもっ》て居たが、何分にも頬張《ほおばっ》て生噛《なまがみ》にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事を知《しっ》て、始めて是《こ》れは却《かえっ》て自分の悪い癖が宜《い》い事になったと合点して大《おお》きに悦び、爾来《じらい》憚《はばか》る所もなくゆる/\食事をして、凡《およ》そ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生の為《た》めに甚《はなは》だ宜しい。
漸く酒を節す
ソレカラ又酒の話になって、私が生得《しょうとく》酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分《ずいぶん》自由に飲むことは飲んだが、兎角《とかく》銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中《のうちゅう》も少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強の傍《かたわ》ら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むと云《い》うような訳《わ》けで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わず能《よ》くも飲みました。夫《そ》れから三十二、三歳の頃と思う。独《ひと》り大《おおい》に発明して、斯《こ》う飲んでは迚《とて》も寿命を全くすることは叶わぬ、左《さ》ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、唯《ただ》一時の事で永続きが出来ぬ、詰《つま》り生涯の根気でそろ/\自《みず》から節するの外《ほか》に道なしと決断したのは、支那人が阿片《あへん》を罷《や》めるようなもので随分苦しいが、先《ま》ず第一に朝酒を廃し、暫《しばら》くして次《つ》ぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張《やは》り客来を名にして飲んで居たのを、漸《ようや》く我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、是《こ》れ丈《だ》けは如何《どう》やら斯うやら首尾|能《よ》く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反《あいはん》して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、稍《や》や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のとき酷《ひど》い熱病に罹《かかっ》て、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、是《こ》れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の賜《たまもの》に相違ないと云《いっ》たのを覚えて居るから、私が生涯|鯨飲《げいいん》の全盛は凡《およ》そ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎と云《い》うよりも年齢老却の所為《せい》でしょう。兎《と》に角《かく》に人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、遂《つい》には唯《ただ》の清酒は利《き》きが鈍いなんてブランデーだのウ※[#小書き片仮名ヰ、398-4]スキーだの飲む者があるが、アレは宜《よ》くない。苦しかろうが罷《や》めるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、況《ま》して今の大酒家と云《いっ》ても私より以上の者は先《ま》ず少ない、高の知れた酒客の葉武者《はむしゃ》だ、そろ/\遣《や》れば節酒も禁酒も屹《きっ》と出来ましょう。
身体運動
ソレから私の身体運動は如何《どう》だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になると※[#「やまいだれ+(冢-冖)」、第4水準2-81-56]《あかぎれ》が切れて血が出る、スルと木綿糸で※[#「やまいだれ+(冢-冖)」、第4水準2-81-56]の切口《きれくち》を縫《ぬっ》て熱油《にえあぶら》を滴《た》らして手療治《てりょうじ》をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或《あ》る時、
鄙事多能年少春
立身自笑却壊身
浴余閑坐肌全浄
曾是綿糸縫※[#「やまいだれ+(冢-冖)」、第4水準2-81-56]人
と云《い》う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風《ふう》が悪いから、中村庄兵衛《なかむらしょうべえ》と云う居合の先生に就《つい》て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終《しじゅう》居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節《おりふし》はドタバタ遣《やっ》て居ました。夫《そ》れから江戸に来て世間に攘夷論が盛《さかん》になってから居合は罷《や》めにして、兼て腕に覚えのある米搗《こめつき》を始めて、折々|遣《やっ》て居た所が、明治三年、大病を煩《わずら》うて、病後何分にも旧《もと》のようにならぬ。その年か翌年か岩倉《いわくら》大使が欧行に付き、親友の長与専斎《ながよせんさい》も随行を命ぜられ、近々《きんきん》出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為《な》ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是《こ》れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之《これ》を遣《や》るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当《おもいあた》ることがあろうと云《い》うのは実に朋友の親切なれども、私は却《かえっ》て喜ばぬ。「馬鹿なことを云《いっ》て呉《く》れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要《い》るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与《ながよ》が笑《わらっ》て、「知らぬ事を云うな。屹《きっ》と役に立つことがあるから黙《だまっ》て取《とっ》て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然《しか》り、長与の外行|留主《るす》中、毎度発熱して、夫《そ》れキニーネ又《また》キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
病に媚びず
横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも股引《ももひき》もフラネルで拵《こしら》え、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身を纏《まと》うて居た所が、頓《とん》と効能が見えぬ。ドウかすると風を引《ひい》て悪寒《おかん》を催して熱が昇る。毎度の事で、凡《およ》そ二年余り三年になっても同様であるから、或日《あるひ》私が大《おおい》に奮発して、是《こ》れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、云《い》わば病に媚るようなものだ。此方《こっち》から媚るから病は段々|付揚《つけあが》る。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には固《もと》より医命に服することなれども、今日は病後の摂生より外《ほか》に要はないから、自分で摂生を試《こころ》みましょう。抑《そもそ》も自分の本《もと》は田舎士族で、少年のとき如何《いか》なる生活して居たかと云《い》えば、麦飯を喰《くら》い唐茄子《とうなす》の味噌汁を啜《すす》り、衣服は手織《ており》木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑《おか》しい。田舎者の身体の方が驚いて仕舞《しま》う。即《すなわ》ち今日|風《かぜ》を引《ひい》たり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過る誤《あやまち》であるから、直《ただち》に前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引《ももひき》も脱ぎ棄てゝ仕舞《しまっ》て、唯《ただ》の木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時|計《ばか》り、騎馬の服と定《き》めて、不断《ふだん》は純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹通《ふきとお》しても構わず家にも居れば外にも出る。唯《ただ》食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切《いっさい》むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗《こめつき》薪割《まきわり》に身を入れて、少年時代の貧乏|世帯《じょたい》と同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の丈《た》けは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に下《くだっ》たこともない。随分調子の宜《よろ》しいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと旧《もと》の通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。扨《さて》私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。兎《と》に角《かく》に生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないと云《い》うこと丈《だ》けは確かに分る。但《ただ》し肌に寒風の吹通しが有益であるか、又《また》は外の摂生を以《もっ》て体力が強くなって、実際害に為《な》るべき寒風にも能《よ》く抵抗して之《これ》に堪《たえ》うるのであるか、即《すなわ》ち寒風その物は薬に非《あら》ず、寒風をも犯して無頓着《むとんじゃく》と云うその全般の生活法が有益であるか、凡《およ》そこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレは扨《さて》置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、殊《こと》に十年間|鯨飲《げいいん》の悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文を勉《つと》めることにしました。
居合、米搗
今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり芝《しば》の三光《さんこう》から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合を抜《ぬい》たり米を搗《つい》たり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨が降《ふっ》ても雪が降ても年中一日も欠かしたことはない。去年の晩秋|戯《たわむ》れに、
一点寒鐘声遠伝
半輪残月影猶鮮
草鞋竹策侵秋暁
歩自三光渡古川
なんて詩を作りましたが、この運動摂生が何時《いつ》まで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。
行路変化多し
回顧すれば六十何年、人生既往を想えば恍《こう》として夢の如《ごと》しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極《しごく》変化の多い賑《にぎや》かな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰込《つめこ》まれて、藩政の楊枝を以《もっ》て重箱の隅《すみ》をほじくるその楊枝の先《さ》きに掛《かかっ》た少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の教《おしえ》をも打遣《うちやっ》て西洋学の門に入り、以前に変《かわっ》た書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考《かんがえ》は段々広くなって、旧藩は扨《さて》置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。或《あるい》はその間に艱難《かんなん》辛苦など述立てれば大造《たいそう》のようだが、咽元《のどもと》通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞《しまえ》えば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去《さっ》た後で昔の貧苦を思出《おもいだ》して何が苦しいか、却《かえっ》て面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやら斯《こ》うやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思《おもっ》て居た処に、又《また》図《はか》らずも王政維新、いよ/\日本国を開《ひらい》て本当の開国となったのは難有《ありがた》い。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時の考《かんがえ》には、天下にコンなものを読む人が有るか無いか夫《そ》れも分らず、仮令《たと》い読んだからとて之《これ》を日本の実際に試《こころ》みるなんて固《もと》より思いも寄らぬことで、一口《ひとくち》に申せば西洋の小説、夢物語の戯作《げさく》くらいに自《みず》から認《したた》めて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段も先《さ》きに進んで思切《おもいきっ》た事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も亦《また》以前の大願成就に安《やす》んじて居られない。コリャ面白い、この勢《いきおい》に乗じて更に大《おおい》に西洋文明の空気を吹込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と、相対《あいたい》して後《おく》れを取らぬようになられないものでもないと、茲《ここ》に第二の誓願を起して、扨《さて》身に叶う仕事は三寸の舌、一本の筆より外《ほか》に何もないから、身体の健康を頼みにして専《もっぱ》ら塾務を務め、又筆を弄《もてあそ》び、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著訳です。一方には大勢の学生を教育し、又演説などして所思《しょし》を伝え、又一方には著書|飜訳《ほんやく》、随分《ずいぶん》忙しい事でしたが、是《こ》れも所謂《いわゆる》万分一を勉《つと》める気でしょう。所で顧《かえり》みて世の中を見れば堪《た》え難《がた》いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進々歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕《あら》われたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有《ありがた》いとも云《い》いようがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、前《さき》に死んだ同志の朋友が不幸だ、アヽ見せて遣《や》りたいと、毎度私は泣きました。実を申せば日清戦争何でもない。唯《ただ》是《こ》れ日本の外交の序開《じょびら》きでこそあれ、ソレほど喜ぶ訳《わ》けもないが、その時の情に迫《せ》まれば夢中にならずには居られない。凡《およ》そコンな訳《わ》けで、その原因は何処《いづく》に在るかと云えば、新日本の文明富強は都《すべ》て先人遺伝の功徳に由来し、吾々《われわれ》共は丁度《ちょうど》都合の宜《い》い時代に生れて祖先の賜《たまもの》を唯《ただ》貰うたようなものに違いはないが、兎《と》に角《かく》に自分の願《がん》に掛けて居たその願が、天の恵み、祖先の余徳に由《よっ》て首尾|能《よ》く叶うたことなれば、私の為《た》めには第二の大願成就と云《い》わねばならぬ。
人間の慾に際限なし
左《さ》れば私は自分の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかりであるが、扨《さて》人間の慾《よく》には際限のないもので、不平を云《い》わすればマダ/\幾らもある。外国交際又は内国の憲法政治などに就《つい》て其《そ》れ是《こ》れと云う議論は政治家の事として差置《さしお》き、私の生涯の中に出来《でか》して見たいと思う所は、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に愧《はず》かしくないようにする事と、仏法にても耶蘇《やそ》教にても孰《いづ》れにても宜《よろ》しい、之《これ》を引立てゝ多数の民心を和《やわ》らげるようにする事と、大《おおい》に金を役じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、凡《およ》そこの三ヶ条です。人は老しても無病なる限りは唯《ただ》安閑としては居られず、私も今の通りに健全なる間は身に叶う丈《だ》けの力を尽す積《つもり》です。
福翁自伝 終
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
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