初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
緒方の塾風
左様《そう》云《い》えば何か私が緒方塾の塾長で頻《しき》りに威張《いばっ》て自然に塾の風《ふう》を矯正《きょうせい》したように聞《きこ》ゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても相替《あいかわ》らず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰《もら》う少々ばかりの家禄《かろく》で暮して居る、私は塾長になってから表向《おもてむき》に先生|家《か》の賄《まかない》を受けて、その上に新書生が入門するとき先生|家《か》に束脩《そくしゅう》を納めて同時に塾長へも金《きん》貳朱《にしゅ》を[#「貳朱を」は底本では「※[#「弋+頁」、74-10]朱を」]呈《てい》すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分《いちぶ》二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭《こづかいせん》には沢山《たくさん》で、是《こ》れが大抵《たいてい》酒の代になる。衣服《きもの》は国の母が手織木綿《ておりもめん》の品《しな》を送《おくっ》て呉《く》れて夫《そ》れには心配がないから、少しでも手許《てもと》に金があれば直《すぐ》に飲むことを考える。是れが為《た》めには同窓生の中で私に誘われてツイ/\飲《のん》だ者も多かろう。扨《さて》その飲みようも至極《しごく》お租末、殺風景で、銭《ぜに》の乏しいときは酒屋で三合《さんごう》か五合|買《かっ》て来て塾中で独《ひと》り飲む。夫《そ》れから少し都合の宜《よ》い時には一朱か二朱|以《もっ》て一寸《ちょい》と料理茶屋に行く、是れは最上の奢《おごり》で容易に出来兼ねるから、先《ま》ず度々《たびたび》行《ゆ》くのは鶏肉屋《とりや》、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で牛鍋《うしなべ》を喰《く》わせる処は唯《ただ》二軒ある。一軒は難波橋《なにわばし》の南詰《みなみづめ》、一軒は新町《しんまち》の廓《くるわ》の側《そば》にあって、最下等の店だから、凡《およ》そ人間らしい人で出入《でいり》する者は決してない。文身《ほりもの》だらけの町の破落戸《ごろつき》と緒方の書生ばかりが得意の定客《じょうきゃく》だ。何処《どこ》から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着《とんじゃく》なし、一人前《ひとりまえ》百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
塾生裸体
当時は士族の世の中だから皆大小は挟《さ》して居る、けれども内塾生《ないじゅくせい》五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、双刀《そうとう》はチャント持《もっ》て居るその外《ほか》、塾中に二腰《ふたこし》か三《み》腰もあったが、跡《あと》は皆質に置《おい》て仕舞《しまっ》て、塾生の誰《たれ》か所持して居るその刀が恰《あたか》も共有物で、是《こ》れでも差支《さしつかえ》のないと云うは、銘々《めいめい》倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、不断は脇差《わきざし》一本、たゞ丸腰にならぬ丈《だ》けの事であったから。夫《そ》れから大阪は暖《あったか》い処だから冬は難渋な事はないが、夏は真実の裸体《はだか》、褌《ふんどし》も襦袢《じゅばん》も何もない真裸体《まっぱだか》。勿論《もちろん》飯を喫《く》う時と会読《かいどく》をする時には自《おのず》から遠慮するから何か一枚ちょいと引掛《ひっか》ける、中にも絽《ろ》の羽織を真裸体の上に着てる者が多い。是《こ》れは余程おかしな風《ふう》で、今の人が見たら、さぞ笑うだろう。食事の時には迚《とて》も座って喰《く》うなんと云《い》うことは出来た話でない。足も踏立《ふみた》てられぬ板敷《いたじき》だから、皆|上草履《うわぞうり》を穿《はい》て立《たっ》て喰う。一度は銘々に別《わ》けてやったこともあるけれども、爾《そ》うは続かぬ。お鉢が其処《そこ》に出してあるから、銘々に茶碗に盛《もっ》て百鬼《ひゃくき》立食《りっしょく》。ソンナ訳《わ》けだから食物《しょくもつ》の価《ね》も勿論安い。お菜《さい》は一六が葱《ねぎ》と薩摩芋の難波煮《なんばに》、五十が豆腐汁《とうふじる》、三八が蜆汁《しじみじる》と云うようになって居て、今日は何か出ると云うことは極《きま》って居る。
裸体の奇談失策
裸体《はだか》の事に就《つい》て奇談がある。或《あ》る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人《ひとり》の思付《おもいつき》に、この酒を彼《あ》の高い物干《ものほし》の上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに持出《もちだ》そうとした処が、物干の上に下婢《げじょ》が三、四人涼んで居る。是《こ》れは困《こまっ》た、今|彼処《あそこ》で飲むと彼奴等《きゃつら》が奥に行《いっ》て何か饒舌《しゃべ》るに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州|生《せい》に松岡勇記《まつおかゆうき》と云う男がある。至極《しごく》元気の宜《い》い活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事に彼《あ》の女共を物干から逐払《おいはらっ》て見せようと云いながら、真裸体《まっぱだか》で一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ傾向《あおむ》きに大の字なりに成《なっ》て倒れた。この風体《ふうてい》を見ては流石《さすが》の下婢《げじょ》も其処《そこ》に居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆|下《お》りて仕舞《しまっ》た。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと云《い》う合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に飲《のん》だことがある。
又|或《あ》るとき是《こ》れは私の大失策、或る夜《よ》私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲《のん》で今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。夫《そ》れから真裸体《まっぱだか》で飛起て、階子段《はしごだん》を飛下《とびお》りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何《ど》うにも斯《こ》うにも逃げようにも逃げられず、真裸体《まっぱだか》で座ってお辞儀も出来ず、進退|窮《きゅう》して実に身の置処《おきどころ》がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込《ひきこん》で仕舞《しまっ》た。翌朝|御託《おわび》に出て昨夜は誠に失礼|仕《つかまつ》りましたと陳《の》べる訳《わ》けにも行かず、到頭《とうとう》末代《まつだい》御挨拶なしに済《すん》で仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行《いっ》て緒方の家を尋ねて、この階子段《はしごだん》の下《した》だったと四十年|前《ぜん》の事を思出して、独り心の中で赤面しました。
不潔に頓着せず
塾員は不規則と云《い》わんか不整頓と云わんか乱暴|狼藉《ろうぜき》、丸で物事に無頓着《むとんじゃく》。その無頓着の極《きょく》は世間で云《い》うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止《と》めない。例えば、塾の事であるから勿論《もちろん》桶《おけ》だの丼《どんぶり》だの皿などの、あろう筈《はず》はないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら七輪《しちりん》もあれば鍋もあって、物を煮て喰《く》うと云うような事を不断|遣《やっ》て居る、その趣《おもむき》は恰《あたか》も手鍋|世帯《じょたい》の台所見たような事を机の周囲《まわり》で遣《やっ》て居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで洗手盥《ちょうずだらい》も金盥《かなだらい》も一切|食物《しょくもつ》調理の道具になって、暑中など何処《どこ》からか素麺《そうめん》を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮《ゆで》て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持《もっ》て来て、その中で冷《ひや》素麺にして、汁《つゆ》を拵《こしら》えるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、その外《ほか》、肴《さかな》を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。
夫《そ》れ所《どころ》ではない。虱《しらみ》は塾中永住の動物で、誰《た》れ一人も之《これ》を免《まぬ》かれることは出来ない。一寸《ちょい》と裸体《はだか》になれば五疋《ごひき》も十疋も捕《と》るに造作《ぞうさ》はない。春先《はるさ》き少し暖気になると羽織の襟に匍出《はいだ》すことがある。或《あ》る書生の説に、ドウダ、吾々《われわれ》の虱は大阪の焼芋に似て居る。冬中《ふゆじゅう》が真盛《まっさか》りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月|蚤《のみ》と交代して引込《ひっこ》み、九月頃|新芋《しんいも》が町に出ると吾々の虱も復《ま》た出て来るのは可笑《おか》しいと云《いっ》た事がある。私は一案を工風《くふう》し、抑《そ》も虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆《せんたくばばあ》の旧筆法で面白くない、乃公《おれ》が一発で殺して見せようと云て、厳冬の霜夜《しもよ》に襦袢《じゅばん》を物干《ものほし》に洒《さら》して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、曾《かつ》て誰《だ》れかに聞《きい》たことがあるから遣《やっ》て見たのです。
豚を殺す
そんな訳《わ》けだから塾中の書生に身なりの立派な者は先《ま》ず少ない。そのくせ市中の縁日など云《い》えば夜分|屹度《きっと》出て行く。行くと往来の群集、就中《なかんずく》娘の子などは、アレ書生が来たと云て脇の方に避《よ》けるその様子は、何か穢多でも出て来て夫《そ》れを穢《きた》ながるようだ。如何《どう》も仕方《しかた》がない。往来の人から見て穢多のように思う筈《はず》だ。或《あ》るとき難波橋《なにわばし》の吾々《われわれ》得意の牛鍋屋《うしなべや》の親爺《おやじ》が豚を買出して来て、牛屋《うしや》商売であるが気の弱い奴《やつ》で、自分に殺すことが出来ぬからと云て、緒方の書生が目指された。夫れから親爺に逢《あっ》て、「殺して遣《や》るが、殺す代りに何を呉《く》れるか」――「左様《さよう》ですな」――「頭を呉れるか」――「頭なら上げましょう。」夫れから殺しに行《いっ》た。此方《こっち》は流石《さすが》に生理学者で、動物を殺すに窒塞《ちっそく》させれば訳《わ》けはないと云うことを知《しっ》て居る。幸いその牛屋は河岸端《かしばた》であるから、其処《そこ》へ連《つれ》て行《いっ》て四足を縛《しばっ》て水に突込《つっこ》で直《す》ぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥から鉈《なた》を借りて来て、先《ま》ず解剖的に脳だの眼だの能《よ》く/\調べて、散々《さんざん》いじくった跡を煮て喰《くっ》たことがある。是《こ》れは牛屋の主人から穢多のように見込《みこま》れたのでしょう。
熊の解剖
それから又|或時《あるとき》には斯《こ》う云《い》う事があった。道修町《どしょうまち》の薬種屋《やくしゅや》に丹波か丹後から熊が来たと云う触込《ふれこ》み。或《あ》る医者の紹介で、後学《こうがく》の為《た》め解剖を拝見致したいから誰か来て熊を解剖して呉《く》れぬかと塾に云《いっ》て来た。「それは面白い」。当時緒方の書生は中々解剖と云うことに熱心であるから、早速《さっそく》行て遣《や》ろうと云うので出掛けて行く。私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。夫《それ》から解剖して是《こ》れが心臓で是れが肺、是れが肝《かん》と説明して遣《やっ》た所が、「誠に有難《ありがた》い」と云て薬種屋も医者もふっと帰って仕舞《しまっ》た。その実は彼等の考《かんがえ》に、緒方の書生に解剖して貰えば無疵《むきず》に熊胆《くまのい》が取れると云うことを知て居るものだから、解剖に託して熊胆《くまのい》が出るや否《いな》や帰《かえっ》て仕舞たと云う事がチャンと分《わかっ》たから、書生さん中々|了簡《りょうけん》しない。是れは一番こねくって遣ろうと、塾中の衆議一決、直《すぐ》にそれ/″\掛《かか》りの手分《てわ》けをした。塾中に雄弁|滔々《とうとう》と能《よ》く喋舌《しゃべっ》て誠に剛情なシツコイ男がある、田中発太郎《たなかはつたろう》(今は新吾《しんご》と改名して加賀金沢に居る)と云う、是れが応接掛《おうせつがかり》、それから私が掛合《かけあい》手紙の原案者で、信州飯山から来て居る書生で菱湖風《りょうこふう》の書を善《よ》く書く沼田芸平《ぬまたうんぺい》と云《い》う男が原案の清書する。夫《そ》れから先方へ使者に行くのは誰《だ》れ、脅迫するのは誰れと、どうにも斯《こ》うにも手に余る奴《やつ》ばかりで、動《やや》もすれば手短《てみじか》に打毀《うちこわ》しに行くと云うような風《ふう》を見せる奴もある。又|彼方《あちら》から来れば捏《こね》くる奴が控えて居る。何でも六、七人|手勢《てぜい》を揃《そろ》えて拈込《ねじこん》で、理屈を述べることは筆にも口にも隙《すき》はない。応接掛りは不断の真裸体《まっぱだか》に似ず、袴羽織《はかまはおり》にチャント脇差《わきざし》を挟《さ》して緩急剛柔、ツマリ学医の面目《ねんもく》云々《うんぬん》を楯《たて》にして剛情な理屈を云うから、サア先方の医者も困《こまっ》て仕舞《しま》い、そこで平《ひら》あやまりだと云う。只《ただ》謝《あやま》るだけで済めば宜《よ》いが、酒を五|升《しょう》に鶏《にわとり》と魚か何かを持《もっ》て来て、それで手を拍《うっ》て塾中で大《おおい》に飲みました。
芝居見物の失策
それに引換《ひきか》えて此方《こっち》から取られたことがある。道頓堀《どうとんぼり》の芝居に与力《よりき》や同心《どうしん》のような役人が見廻りに行くと、スット桟敷《さじき》に通《とおっ》て、芝居の者共《ものども》が茶を持《もっ》て来る菓子を持て来るなどして、大威張《おおいば》りで芝居をたゞ見る。兼てその様子を知《しっ》て居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟《さ》して宗十郎頭巾《そうじゅうろうずきん》を冠《かむっ》て、その役人の真似をして度々《たびたび》行《いっ》て、首尾|能《よ》く芝居見物して居た。所が度《たび》重なれば顕《あら》われるの諺《ことわざ》に洩《も》れず、或《あ》る日、本者《ほんもの》が来た。サア此方《こっち》は何とも云《い》われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退|谷《きわ》まり大騒ぎになって、夫《そ》れから玉造《たまつくり》の与力に少し由縁《ゆかり》を得て、ソレに泣付《なきつい》て内済《ないさい》を頼《たのん》で、ヤット無事に収まった。そのとき酒を持《もっ》て行たり肴《さかな》を持て行たりして、何でも金にして三歩《さんぶ》ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益《たかはしじゅんえき》と云う男が頭取《とうどり》であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余り宜《よ》くなかろう、マサカの時は大変だからと云《いっ》たが肯《きか》ない。「何《な》に訳《わ》けはない、自《おのず》から方便ありなんてヅウ/″\しく遣《やっ》て居たが、とう/\捕《つか》まったのが可笑《おか》しい所《どころ》か一時|大《おお》心配をした。
喧嘩の真似
それから時としては斯《こ》う云う事もあった。その乱暴さ加減は今人の思寄《おもいよ》らぬことだ。警察がなかったから云わば何でも勝手次第である。元来大阪の町人は極《きわ》めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬《やじうま》が出て来て滅茶苦茶にして仕舞《しま》うが、大阪では野次馬は迚《と》ても出て来ない。夏の事で夕方|飯《めし》を喰《くっ》てブラ/\出て行く。申合《もうしあわせ》をして市中で大喧嘩の真似をする。お互に痛くないように大造《たいそう》な剣幕で大きな声で怒鳴《どなっ》て掴合《つかみあ》い打合《うちあ》うだろう。爾《そ》うするとその辺の店はバタ/\片付けて戸を締めて仕舞うて寂《ひっそ》りとなる。喧嘩と云《いっ》た所が唯《ただ》それだけの事で外《ほか》に意味はない。その法は同類が二、三人ずつ分《わか》れて一番繁昌な賑《にぎ》やかな処で双方から出逢うような仕組《しくみ》にするから、賑やかな処と云《い》えば先《ま》ず遊廓の近所、新町《しんまち》九軒《くけん》の辺《へん》で常極《じょうきま》りに遣《やっ》て居たが、併《しか》し余り一箇所で遣て化《ばけ》の皮が顕《あらわ》れるとイカヌから、今夜は道頓堀で遣《や》ろう、順慶町《じゅんけいまち》で遣ろうと云て遣たこともある。信州の沼田芸平《ぬまたうんぺい》などは余《よ》ほど喧嘩の上手《じょうず》であった。
弁天小僧
それから一度は斯《こ》う云《い》う事があった。私と先輩の同窓生で久留米《くるめ》の松下元芳《まつしたげんぽう》と云う医者と二人|連《づれ》で、御霊《ごりょう》と云う宮地《みやち》に行て夜見世《よみせ》の植木を冷《ひや》かしてる中に、植木屋が、「旦那さん悪さをしてはいけまへんと云《いっ》たのは、吾々《われわれ》の風体《ふうてい》を見て万引をしたと云《い》う意味だから、サア了簡《りょうけん》しない。丸で弁天小僧見たように拈繰返《ねじくりかえ》した。「何でもこの野郎を打殺《うちころ》して仕舞《しま》え。理屈を云わずに打殺して仕舞えと私が怒鳴る。松下は慰《なだ》めるような風《ふう》をして、「マア殺さぬでも宜《よ》いじゃないか。「ヤア面倒《めんどう》だ、一打《ひとうち》に打殺《うちころ》して仕舞うから止《と》めなさんなと、夫《そ》れ是《こ》れする中に往来の人は黒山のように集まって大《おお》混雑になって来たから、此方《こっち》は尚《な》お面白がって威張《いばっ》て居ると、御霊の善哉屋《ぜんざいや》の餅搗《もちつき》か何かして居る角力取《すもうとり》が仲裁に這入《はいっ》て来て、「どうか宥《ゆる》して遣《やっ》て下さいと云うから、「よし貴様が中《なか》に這入《はい》れば宥して遣《や》る。併《しか》し明日の晩|此処《ここ》に見世を出すと打|殺《ころ》して仕舞うぞ。折角中に這入《はいっ》たから今夜は宥して遣るからと云て、翌晩|行《いっ》て見たら、正直な奴だ、植木屋の処だけ土場見世《どばみせ》を休んで居た。今のように一寸《ちょいと》も警察と云うものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪い事をしない、一寸《ちょいと》この植木見世|位《ぐらい》の話で実《み》のある悪事は決してしない。
チボと呼ばれる
私が一度|大《おおい》に恐れたことは、是《こ》れも御霊《ごりょう》の近処で上方《かみがた》に行われる砂持《すなもち》と云う祭礼のような事があって、町中《まちじゅう》の若い者が百人も二百人も灯籠《とうろう》を頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人して之《これ》を見物して居る中に、私が如何《どう》いう気であったか、何《いず》れ酒の機嫌でしょう、杖《つえ》か何かでその頭の灯籠を打落《ぶちおと》して遣《やっ》た。スルトその連中《れんじゅう》の奴《やつ》と見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)と云《い》えば、理非を分《わか》たず打殺して川に投《ほう》り込む習《なら》わしだから、私は本当に怖かった。何でも逃《に》げるに若《し》かずと覚悟をして、跣《はだし》になって堂島の方に逃げた。その時私は脇差《わきざし》を一本|挟《さ》して居たから、若《も》し追付《おいつ》かるようになれば後向《うしろむい》て進《すすん》で斬《き》るより外《ほか》仕方《しかた》がない。斬《きっ》ては誠に不味《まず》い。仮初《かりそめ》にも人に疵《きず》を付ける了簡《りょうけん》はないから、唯《ただ》一生懸命に駈《か》けて、堂島五丁目の奥平《おくだいら》の倉屋敷に飛込《とびこん》でホット呼吸《いき》をした事がある。
無神無仏
又大阪の東北の方《ほう》に葭屋橋《あしやばし》と云う橋があるその橋手前の処を築地と云《いっ》て、在昔《むかし》は誠に如何《いかが》な家《うち》ばかり並んで居て、マア待合《まちあい》をする地獄屋とでも云うような内実|穢《きた》ない町であったが、その築地の入口の角《かど》に地蔵様か金比羅様《こんぴらさま》か知らん小さな堂がある。中々繁昌の様子で、其処《そこ》に色々な額《がく》が上げてある。或《あるい》は男女の拝んでる処が描《えが》いてある、何か封書が順に貼付《はりつ》けてある、又は髻《もとどり》が切《きっ》て結《ゆ》い付けてある。夫《そ》れを昼の中《うち》に見て置て、夜になるとその封書や髻のあるのを引《ひっ》さらえて塾に持《もっ》て帰て開封して見ると、種々《しゅじゅ》様々の願《がん》が掛けてあるから面白い。「ハヽア是《こ》れは博奕《ばくち》を打《うっ》た奴が止《やめ》ると云うのか。是れは禁酒だ。是れは難船に助かったお礼。此方《こっち》のは女狂《おんなぐるい》にこり/\した奴だ。夫《そ》れは何歳の娘が妙な事を念じて居るなどゝ、唯《ただ》それを見るのが面白くて毎度|遣《やっ》た事だが、兎《と》に角《かく》に人の一心を籠《こ》めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。無神無仏の蘭学生に逢《あっ》ては仕方《しかた》がない。
遊女の贋手紙
夫れから塾中の奇談を云《い》うと、そのときの塾生は大抵《たいてい》みな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪《そうはつ》で国から出て来るけれども、大阪の都会に居る間《あいだ》は半髪《はんぱつ》になって天下普通の武家の風《ふう》がして見たい。今の真宗坊主が毛を少し延《の》ばして当前《あたりまえ》の断髪の真似をするような訳《わ》けで、内実の医者坊主が半髪になって刀を挟《さ》して威張《いば》るのを嬉しがって居る。その時、江戸から来て居る手塚と云う書生があって、この男は或《あ》る徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵《あおい》の紋付《もんつき》を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作《たちづくり》の刀を挟《さし》てると云う風だから、如何《いか》にも見栄《みえ》があって立派な男であるが、如何《どう》も身持《みもち》が善《よ》くない。ソコデ私が或る日、手塚に向《むかっ》て、「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何は扨置《さてお》き北の新地に行くことは止《よ》しなさいと云《いっ》たら、当人もその時は何か後悔した事があると見えて「アヽ新地か、今思出しても忌《いや》だ。決して行かない。「それなら屹度《きっと》君に教えて遣《や》るけれども、マダ疑わしい。行かないと云う証文《しょうもん》を書け。「宜《よろ》しい如何《どん》な事でも書くと云うから、云々《うんぬん》今後屹度勉強する、若《も》し違約をすれば坊主にされても苦《くるし》からずと云う証文を書かせて私の手に取《とっ》て置て、約束の通りに毎日別段に教えて居た所が、その後手塚が真実勉強するから面白くない。斯《こ》う云《い》うのは全く此方《こっち》が悪い。人の勉強するのを面白くないとは怪《け》しからぬ事だけれども、何分|興《きょう》がないから窃《そっ》と両三人に相談して、「彼奴《あいつ》の馴染《なじみ》の遊女は何と云う奴か知《し》ら。「それは直《す》ぐに分《わか》る、何々という奴。「よし、それならば一つ手紙を遣《や》ろうと、夫《そ》れから私が遊女風の手紙を書く。片言交《かたことまじ》りに彼等の云いそうな事を並べ立て、何でも彼《あ》の男は無心《むしん》を云われて居るに相違ないその無心は、屹度《きっと》麝香《じゃこう》を呉《く》れろとか何とか云われた事があるに違いないと推察して、文句の中に「ソレあのとき役足《やくそく》のじゃこはどておますと云うような、判じて読まねば分らぬような事を書入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、併《しか》し私の手蹟《て》じゃ不味《まず》いから長州の松岡勇記《まつおかゆうき》と云う男が御家流《おいえりゅう》で女の手に紛《まぎ》らわしく書いて、ソレカラ玄関の取次《とりつぎ》をする書生に云含《いいふく》めて、「是《こ》れを新地から来たと云《いっ》て持《もっ》て行け。併し事実を云えば打撲《ぶちなぐ》るぞ。宜《よろ》しいかと脅迫して、夫れから取次が本人の処に持て行《いっ》て、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見え隠《がく》れに様子を窺《うかが》うて居た所が、本人の手塚は一人《ひとり》で頻《しき》りにその手紙を見て居る。麝香《じゃこう》の無心があった事か如何《どう》か分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋|順益《じゅんえき》の思付《おもいつき》で余《よ》ほど善《よ》く出来てる。そんな事で如何《どう》やら斯《こ》うやら遂《つい》に本人をしゃくり出して仕舞《しまっ》たのは罪の深い事だ。二、三日は止《と》まって居たが果して行《いっ》たから、ソリャ締《し》めたと共謀者は待《まっ》て居る。翌朝《よくちょう》帰《かえっ》て平気で居るから、此方《こっち》も平気で、私が鋏《はさみ》を持て行《いっ》てひょいと引捕《ひっつかま》えた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろと云《いっ》て、髻《もとどり》を捕《つかま》えて鋏をガチャ/\云わせると、当人は真面目《まじめ》になって手を合せて拝む。そうすると共謀者|中《ちゅう》から仲裁人が出て来て、「福澤、余り酷《ひど》いじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の中に、馴合《なれあい》の中人《ちゅうにん》が段々|取持《とりも》つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏《にわとり》を買わして、一処に飲みながら又|冷《ひや》かして、「お願いだ、もう一度行て呉《く》れんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それが自《おのず》から切諫《いけん》になって居たこともあろう。
御幣担ぎを冷かす
同窓生の間《あいだ》には色々な事のあるもので、肥後から来て居た山田謙輔《やまだけんすけ》と云う書生は極々《ごくごく》の御幣担《ごへいかつぎ》で、し[#「し」に白丸傍点]の字を言わぬ。その時、今の市川団十郎の親の海老蔵《えびぞう》が道頓堀の芝居に出て居るときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵のよばい[#「よばい」に白丸傍点]を見るなんて云う位《くらい》な御幣担だから、性質は至極《しごく》立派な人物だけれとも、如何《どう》も蘭学書生の気に入らぬ筈《はず》だ。何か話の端《はし》には之《これ》を愚弄《ぐろう》して居ると、山田の云うに「福澤々々、君のように無法な事ばかり云《い》うが、マア能《よ》く考えて見給《みたま》え。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼に逢うと鶴を台に戴せて担《かつい》で来るのを見ると何方《どっち》が宜《よ》いかと云うから、私は、「夫《そ》れは知れた事だ。死人《しびと》は喰《く》われんから鶴の方が宜《い》い。けれども鶴だって乃公《おれ》に喰わせなければ死人《しにん》も同じ事だと答えたような塩梅式《あんばいしき》で、何時《いつ》も冷《ひや》かして面白がって居る中に、或《あ》るとき長与専斎《ながよせんさい》か誰《だ》れかと相談して、彼奴《あいつ》を一番大に遣《やっ》てやろうじゃないかと一工風《ひとくふう》して、当人の不在の間《あいだ》にその硯《すずり》に紙を巻いて位牌《いはい》を拵《こしら》えて、長与の書が旨《うま》いから立派に何々院何々|居士《こじ》と云う山田の法名《ほうみょう》を書いて机の上に置て、当人の飯《めし》を喰う茶碗に灰を入れて線香を立てゝ位牌の前にチャント供えて置た所が、帰《かえっ》て来て之を見て忌《いや》な顔をしたとも何とも、真青《まっさお》になって腹を立てゝ居たが、私共は如何《どう》も怖かった。若《も》しも短気な男なら切付《きりつ》けて来たかも知れないから。
欺て河豚を喰わせる
夫《そ》れから又一度|遣《やっ》た後《あと》で怖いと思《おもっ》たのは人をだまして河豚《ふぐ》を喰《く》わせた事だ。私は大阪に居るとき颯々《さっさ》と河豚も喰えば河豚の肝《きも》も喰《くっ》て居た。或《あ》る時、芸州《げいしゅう》仁方《にがた》から来て居た書生、三刀元寛《みとうげんかん》と云《い》う男に、鯛《たい》の味噌漬《みそづけ》を貰《もらっ》て来たが喰わぬかと云《い》うと、「有難《ありがた》い、成程|宜《い》い味がすると、悦《よろこ》んで喰て仕舞《しまっ》て二時間ばかり経《たっ》てから、「イヤ可愛《かあい》そうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。食物《しょくもつ》の消化時間は大抵《たいてい》知《しっ》てるだろう、今|吐剤《とざい》を飲《のん》でも無益だ。河豚の毒が嘔《は》かれるなら嘔《はい》て見ろと云《いっ》たら、三刀も医者の事だから能《よ》く分《わかっ》て居る。サア気を揉《もん》で私に武者振付《むしゃぶりつ》くように腹を立てたが、私も後《あと》になって余り洒落《しゃれ》に念が入過《いりす》ぎたと思て心配した。随分|間違《まちがい》の生じ易《やす》い話だから。
料理茶屋の物を盗む
前に云《い》う通り御霊《ごりょう》の植木|見世《みせ》で万引と疑われたが、疑われる筈《はず》だ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、呉服店《ごふくや》で反物《たんもの》なんど云う念の入《いっ》た事ではない、料理茶屋で飲《のん》だ帰りに猪口《ちょこ》だの小皿だの色々手ごろな品を窃《そっ》と盗んで来るような万引である。同窓生互に夫《そ》れを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには穫物《えもの》も多い。中には昨夜《ゆうべ》の会で団扇《うちわ》の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し吸物椀《すいものわん》の蓋《ふた》を袂《たもと》にする者もある。又|或《あ》る奴は、君達がそんな半端物《はんぱもの》を挙げて来るのはまだ拙《つた》ない。乃公《おれ》の獲物を拝見し給えと云《いっ》て、小皿を十人前|揃《そろ》えて手拭《てぬぐい》に包んで来たこともある。今思えば是《こ》れは茶屋でもトックに知《しっ》て居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払《はらい》の内に這入《はいっ》て居るに相違ない、毎度の事でお極《きま》りの盗坊《どろぼう》だから。
難波橋から小皿を投ず
その小皿に縁のある一奇談は、或《あ》る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼《ああ》飲みたいと一人が云《い》うと、僕も爾《そ》うだと云う者が直《すぐ》に四、五人出来た。所《ところ》がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開《あ》けさして、鍋島《なべしま》の浜と云う納涼《すずみ》の葭簀張《よしずばり》で、不味《まず》いけれども芋蛸汁《いもだこじる》か何かで安い酒を飲《のん》で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時|過《すぎ》でもあったか、難波橋《なにわばし》の上に来たら、下流《かわしも》の方で茶船《ちゃぶね》に乗《のっ》てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方《こっち》は百五十か其処辺《そこら》の金を見付出《みつけだ》して漸《ようや》く一盃《いっぱい》飲で帰る所だ。忌々敷《いまいまし》い奴等だ。あんな奴があるから此方等《こちら》が貧乏するのだと云いさま、私の持《もっ》てる小皿を二、三枚|投付《なげつ》けたら、一番|仕舞《しまい》の一枚で三味線の音《ね》がプッツリ止《や》んだ。その時は急いで逃げたから人が怪我《けが》をしたかどうか分《わか》らなかった。所《ところ》が不思議にも一箇月ばかり経《たっ》て其《そ》れが能《よ》く分《わか》った。塾の一書生が北の新地に行《いっ》て何処《どこ》かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には酷《ひど》い奴もある。一箇月ばかり前の夜《ばん》に私がお客さんと舟で難波橋《なにわばし》の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度《ちょうど》私の三味線に中《あた》って裏表《うらおもて》の皮を打抜《うちぬ》きましたが、本当に危ない事で、先《ま》ず/\怪我をせんのが仕合《しあわせ》でした。何処《どこ》の奴《やつ》か四、五人連れでその皿を投げて置《おい》て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、斯《こ》う/\芸者が話して居たと云《い》うのを、私共は夫《そ》れを聞《きい》て下手人《げしゅにん》にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。
禁酒から煙草
又私は酒の為《た》めに生涯の大損《おおぞん》をして、その損害は今日までも身に附《つい》て居ると云うその次第は、緒方《おがた》の塾に学問修業しながら兎角《とかく》酒を飲《のん》で宜《よ》いことは少しもない。是《こ》れは済《す》まぬ事だと思い、恰《あだか》も一念こゝに発起《ほっき》したように断然酒を止《や》めた。スルト塾中の大《おお》評判ではない大笑《おおわらい》で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑《おか》しい。何時《いつ》まで続くだろう。迚《とて》も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷《ひや》かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱《しんぼう》して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋|順益《じゅんえき》が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣《や》るぞ。所が凡《およ》そ人間の習慣は、仮令《たと》い悪い事でも頓《とん》に禁ずることは宜《よろ》しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草《タバコ》を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶《かな》わぬと親切らしく云《い》う。所《ところ》が私は烟草が大嫌いで、是《こ》れまでも同塾生の烟草を喫《の》むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳《わけ》の分らぬ物を喫《の》む奴《やつ》の気が知れない。何は扨置《さてお》き臭くて穢《きた》なくて堪《たま》らん。乃公《おれ》の側《そば》では喫んで呉《く》れるななんて、愛想《あいそ》づかしの悪口《わるくち》を云《いっ》て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何《どう》もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦《また》無理でもない。「そんなら遣《やっ》て見ようかと云《いっ》てそろ/\試《こころみ》ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管《キセル》を貸したり、中には是《こ》れは極《ご》く軽い烟草だと云て態々《わざわざ》買《かっ》て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴《あいつ》を喫烟者《タバコのみ》にして遣《や》ろうと、寄って掛《かか》って私を愚弄《ぐろう》するのは分って居るけれども、此方《こっち》は一生懸命禁酒の熱心だから、忌《いや》な烟《けむり》を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛《から》いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善《よ》くなって来た。凡《およ》そ一箇月ばかり経《たっ》て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯《ひきょう》とは知りながら一寸《ちょい》と一盃《いっぱい》遣《やっ》て見ると堪《たま》らない。モウ一盃、これでお仕舞《しまい》と力《りき》んでも、徳利《とくり》を振《ふっ》て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合《さんごう》の酒を皆|飲《のん》で仕舞《しまっ》て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前《もと》の通りになって、去《さ》らば烟草の方は喫《の》まぬむかしの通りにしようとしても是《こ》れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳《わ》けが分《わか》らない。迚《とて》も叶《かな》わぬ禁酒の発心《ほっしん》、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草《タバコ》と両刀|遣《づか》いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止《や》みそうにもせず、衛生の為《た》め自《みず》から作《な》せる損害と申して一言《いちごん》の弁解はありません。
桃山から帰て火事場に働く
塾中|兎角《とかく》貧生《ひんせい》が多いので料理茶屋に行《いっ》て旨い魚を喰《く》うことは先《ま》ず六《むず》かしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰《はしづめ》に魚市《さかないち》が立つ。マア云《い》わば魚の残物《ひけもの》のようなもので直《ね》が安い。夫《そ》れを買《かっ》て来て洗水盥《ちょうずだらい》で洗《あらっ》て、机の毀《こわ》れたのか何かを俎《まないた》にして、小柄《こづか》を以《もっ》て拵《こしら》えると云《い》うような事は毎度|遣《やっ》て居たが、私は兼て手の先《さ》きが利《き》いてるから何時《いつ》でも魚洗《さかなあらい》の役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山《ももやま》と云う処があって、盛《さか》りだと云うから花見に行こうと相談が出来た。迚《とて》も彼方《あっち》に行《いっ》て茶屋で飲食《のみく》いしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物《ひけもの》を買て来て、その外《ほか》、氷豆腐だの野葉物《やさいもの》だの買調《かいととの》えて、朝早くから起きて怱々《そうそう》に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、凡《およ》そ十四、五人も同伴《つれ》があったろう、弁当を順持《じゅんもち》にして桃山に行て、さん/″\飲食いして宜《い》い機嫌になって居るその時に、不図《ふと》西の方を見ると大阪の南に当《あたっ》て大火事だ。日は余程《よほど》落ちて昔の七ツ過《すぎ》。サア大変だ。丁度《ちょうど》その日に長与専斎《ながよせんさい》が道頓堀の芝居を見に行て居る。吾々《われわれ》花見|連中《れんじゅう》は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、長与《ながよ》が行《いっ》て居る。若《も》しや長与が焼死《やけじに》はせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬと云《い》うので、桃山《ももやま》から大阪|迄《まで》、二、三里の道をどん/″\駈《か》けて、道頓堀に駈付《かけつ》けて見た所が、疾《と》うに焼けて仕舞《しま》い、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼延《やけの》びて居る。長与は如何《どう》したろうかと心配したものゝ、迚《とて》も捜《さが》す訳《わ》けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は仕方《しかた》がない。「火事を見物しようじゃないかと云《いっ》て、その火事の中へどん/\這入《はいっ》て行た。所が荷物《にもつ》を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んで遣《や》ろうと云うので、夜具包《やぐづつみ》か何の包か、風呂敷包を担《かつ》いだり箪笥《たんす》を担いだり中々働いて、段々|進《すすん》で行くと、その時大阪では焼ける家の柱に綱《つな》を付けて家を引倒《ひきたう》すと云うことがあるその網を引張《ひっぱ》って呉《く》れと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が握飯《にぎりめし》を喰《くわ》せる、酒を飲ませる。如何《どう》も堪《こた》えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯を喰《くっ》て八時頃にもなりましたろう。夫《そ》れから一同塾に帰《かえっ》た。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の周囲《まわり》だけは大変騒々しいが、火の中へ這入《はい》ると誠に静《しずか》なもので、一人《ひとり》も人が居らぬ位《くらい》。どうもない。只《ただ》その周囲の処に人がドヤ/″\群集《ぐんしゅう》して居るだけである。夫《そ》れゆえ大きな声を出して蹴破《けやぶ》って中へ飛込《とびこ》みさえすれば誠に楽な話だ。中には火消《ひけし》の黒人《くろうと》と緒方の書生だけで大《おおい》に働いた事があると云《い》うような訳《わ》けで、随分活溌な事をやったことがありました。
一体塾生の乱暴と云うものは是《こ》れまで申した通りであるが、その塾生同士|相互《あいたがい》の間柄《あいだがら》と云うものは至《いたっ》て仲の宜《よ》いもので、決して争《あらそい》などをしたことはない。勿論《もちろん》議論はする、いろ/\の事に就《つい》て互に論じ合うと云うことはあっても、決して喧嘩をするような事は絶《たえ》てない事で、殊《こと》に私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。仮令《たと》い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂《あこう》義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでも宜《よろ》しい、義不義、口の先《さ》きで自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦《くるし》くないと云《いっ》て、敵に為《な》り味方に為り、散々論じて勝《かっ》たり負けたりするのが面白いと云う位《くらい》な、毒のない議論は毎度大声で遣《やっ》て居たが、本当に顔を赧《あか》らめて如何《どう》あっても是非を分《わか》って了《しま》わなければならぬと云う実《み》の入《いっ》た議論をしたことは決してない。
塾生の勉強
凡《およ》そ斯《こ》う云う風《ふう》で、外に出ても亦《また》内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故|一寸《ちょい》と一目《いちもく》見た所では――今までの話だけを開《きい》た所では、如何《いか》にも学問どころの事ではなく唯《ただ》ワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、其処《そこ》の一段に至ては決して爾《そ》うでない。学問勉強と云《い》うことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩《わずろ》うて幸《さいわい》に全快に及んだが、病中は括枕《くくりまくら》で坐蒲団《ざぶとん》か何かを括《くく》って枕にして居たが、追々《おいおい》元の体に恢復《かいふく》して来た所で、只《ただ》の枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が一人《ひとり》あるその家来に、只の枕をして見たいから持《もっ》て来いと云《いっ》たが、枕がない、どんなに捜《さが》してもないと云うので、不図《ふと》思付《おもいつ》いた。是《こ》れまで倉屋敷に一年ばかり居たが遂《つい》ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時《なんどき》でも構わぬ、殆《ほと》んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず頻《しき》りに書を読んで居る。読書に草臥《くたび》れ眠くなって来れば、机の上に突臥《つっぷ》して眠るか、或《あるい》は床の間の床側《とこふち》を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度《いちど》もしたことがない。その時に始めて自分で気が付《つい》て、「成程《なるほど》枕はない筈《はず》だ、是《こ》れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも大抵《たいてい》趣《おもむき》が分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、凡《およ》そ勉強と云《い》うことに就《つい》ては実にこの上に為《し》ようはないと云う程に勉強して居ました。
それから緒方の塾に這入《はいっ》てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若《も》し酒があれば酒を飲《のん》で初更《よい》に寝る。一寝《ひとね》して目が覚《さめ》ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明《よあけ》まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊《めしたき》がコト/\飯を焚《た》く仕度《したく》をする音が聞えると、それを相図《あいず》に又寝る。寝て丁度《ちょうど》飯の出来上った頃起きて、その儘《まま》湯屋に行《いっ》て朝湯《あさゆ》に這入て、それから塾に帰《かえっ》て朝飯《あさめし》を給《た》べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間|殆《ほと》んど常極《じょうきま》りであった。勿論《もちろん》衛生などゝ云うことは頓《とん》と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧《やかま》しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或《あるい》は思出《おもいだ》さなかったのか、一寸《ちょいと》でも喧《やかま》しく云《いっ》たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体《からだ》が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇《むやみ》に喧しく云えば却《かえっ》て身体《からだ》が弱くなると思《おもっ》て居たのではないかと思われる。
原本写本会読の法
それから塾で修行するその時の仕方《しかた》は如何《どう》云《い》う塩梅《あんばい》であったかと申すと、先《ま》ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何《どう》して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻《ほんこく》になって居る和蘭《オランダ》の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先《ま》ずそのガランマチカを教え、素読《そどく》を授《さずけ》る傍《かたわら》に講釈をもして聞かせる。之《これ》を一冊|読了《よみおわ》るとセインタキスを又その通《とおり》にして教える。如何《どう》やら斯《こ》うやら二冊の文典が解《げ》せるようになった所で会読《かいどく》をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭《かいとう》が一人《ひとり》あって、その会読するのを聞《きい》て居て、出来不出来に依《よっ》て白玉《しろだま》を附けたり黒玉《くろだま》を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫《そ》れから以上は専《もっぱ》ら自身|自力《じりき》の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試《こころ》みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外《ほか》に何もない。ソレモ取集《とりあつ》めて僅《わず》か十部に足らず、固《もと》より和蘭から舶来の原書であるが、一種類|唯《ただ》一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何《どう》してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以《もっ》て毎月六才|位《ぐらい》会読をするのであるが、之《これ》を写すに十人なら十人一緒に写す訳《わ》けに行かないから、誰が先に写すかと云《い》うことは籤《くじ》で定《き》めるので、扨《さて》その写しようは如何《どう》すると云うに、その時には勿論《もちろん》洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能《よ》く磨《すっ》て真書《しんかき》で写す。それはどうも埓《らち》が明かないから、その紙に礬水《どうさ》をして、夫《そ》れから筆は鵞筆《がぺん》で以て写すのが先《ま》ず一般の風であった。その鵞筆《がぺん》と云うのは如何《どう》云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋《やくしゅや》か何かに、鶴か雁《がん》かは知らぬが、三寸ばかりに切《きっ》た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。是《こ》れは鰹《かつお》の釣道具《つりどうぐ》にするものとやら聞て居た。価《あたい》は至極《しごく》安い物で、それを買《かっ》て、磨澄《とぎす》ました小刀《こがたな》で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう訳《わ》けはない。日本の墨壺《すみつぼ》と云うのは、磨た墨汁《すみ》を綿《わた》か毛氈《もうせん》の切布《きれ》に浸《した》して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、只《ただ》墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。斯《こ》う云う次第で、塾中誰でも是非《ぜひ》写さなければならぬから写本は中々上達して上手《じょうず》である。一例を挙《あ》ぐれば、一人《ひとり》の人が原書を読むその傍《そば》で、その読む声がちゃんと耳に這入《はいっ》て、颯々《さっさ》と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅《あんばい》に読むと写すと二人掛《ふたりがか》りで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁《うつしおわ》ると又その次の人が写すと云《い》うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或《あるい》は四、五枚より多くはない。
自身自力の研究
扨《さて》その写本の物理書、医書の会読《かいどく》を如何《どう》するかと云うに、講釈の為人《して》もなければ読んで聞かして呉《く》れる人もない。内証《ないしょ》で教えることも聞くことも書生間の恥辱《ちじょく》として、万々一も之《これ》を犯す者はない。唯《ただ》自分|一人《ひとり》で以《もっ》てそれを読砕《よみくだ》かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便《たよ》る外《ほか》に道はない。その辞書と云うものは、此処《ここ》にヅーフと云う写本の字引《じびき》が塾に一部ある。是《こ》れは中々大部なもので、日本の紙で凡《およ》そ三千枚ある。之を一部|拵《こしら》えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭《オランダ》のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸《ドイツ》和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇《あが》められ、夫《そ》れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲《まわり》に寄合《よりあっ》て見て居た。夫れからモウ一歩|立上《のぼ》るとウエーランドと云《い》う和蘭《オランダ》の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分《わか》らなければウエーランドを見る。所《ところ》が初学の間《あいだ》はウエーランドを見ても分る気遣《きづかい》はない。夫《それ》ゆえ便《たよ》る所は只《ただ》ヅーフのみ。会読《かいどく》は一六とか三八とか大抵《たいてい》日が極《きま》って居て、いよ/\明日《あす》が会読だと云うその晩は、如何《いか》な懶惰《らいだ》生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群《ぐん》をなして無言で字引を引《ひき》つゝ勉強して居る。夫れから翌朝《よくあさ》の会読になる。会読をするにも籤《くじ》で以《もっ》て此処《ここ》から此処までは誰と極《き》めてする。会頭《かいとう》は勿論《もちろん》原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、若《も》しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解《げ》し得た者は白玉《しろたま》、解《げ》し傷《そこな》うた者は黒玉《くろだま》、夫れから自分の読む領分を一寸《ちょっと》でも滞《とどこお》りなく立派に読んで了《しま》ったと云う者は白い三角を付ける。是《こ》れは只の丸玉《まるだま》の三倍ぐらい優等な印《しるし》で、凡《およ》そ塾中の等級は七、八級|位《ぐらい》に分けてあった。而《そう》して毎級第一番の上席を三ヶ月|占《しめ》て居れば登級《とうきゅう》すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞《きい》て遣《や》り至極《しごく》深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力《じりき》に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢《あ》うようなものだ。爾《そ》う云《い》う訳《わ》けで次第々々に昇級すれば、殆《ほと》んど塾中の原書を読尽《よみつく》して云わば手を空《むなし》うするような事になる、その時には何か六《むず》かしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言《ちょげん》とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読《かいどく》をしたり、又は先生に講義を願《ねがっ》たこともある。私などは即《すなわ》ちその講義聴聞者の一人でありしが、之《これ》を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密《ちみつ》なることその放胆《ほうたん》なること実に蘭学界の一大家《いちだいか》、名実共に違《たが》わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰《かえっ》て朋友|相互《あいたがい》に、「今日の先生の彼《あ》の卓説は如何《どう》だい。何だか吾々《われわれ》は頓《とん》に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。
市中に出て大《おおい》に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵《たいてい》会読を仕舞《しまっ》たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇《ひま》があると云う時に勝手次第に出て行《いっ》たので、会読の日に近くなると所謂《いわゆる》月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を能《よ》く読むと否《いな》とは人々の才不才《さいふさい》にも依《よ》りますけれども、兎《と》も角《かく》も外面を胡魔化《ごまか》して何年居るから登級《とうきゅう》するの卒業するのと云《い》うことは絶えてなく、正味《しょうみ》の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は能《よ》く原書を読むことに達して居ました。
写本の生活
ヅーフの事に就《つい》て序《ついで》ながら云うことがある。如何《どう》かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰《もら》いたいと云う注文を申込《もうしこん》で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子《たね》になった。当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で何文《なんもん》と云う相場である。処《ところ》がヅーフ一枚は横文字三十行|位《くらい》のもので、夫《そ》れだけの横文字を写すと一枚十六|文《もん》、夫れから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、只《ただ》の写本に較《くら》べると余程《よほど》割りが宜《よろ》しい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその半値《はんね》八十文になる。註を写す者もあれば横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すと云うのであるから、合計して見ると中々大きな金高《きんだか》になって、自《おのず》から書生の生活を助けて居ました。今日《こんにち》より考《かんがう》れば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば白米《はくまい》一石《いっこく》が三分二朱《さんぶにしゅ》、酒が一升《いっしょう》百六十四文から二百文で、書生在塾の入費《にゅうひ》は一箇月一分貳|朱《しゅ》から[#「貳朱から」は底本では「※[#「弋+頁」、104-12]朱から」]一分三朱あれば足る。一分貳朱は[#「貳朱は」は底本では「※[#「弋+頁」、104-13]朱は」]その時の相場で凡《およ》そ二貫《にかん》四百文であるから、一日が百文より安い。然《しか》るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、凡そ尋常一様の写本をして塾に居られるなどゝ云《い》うことは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。ソレに就《つい》て一例を挙《あ》げれば斯《こ》う云《い》うことがある。江戸は流石《さすが》に大名の居る処で、啻《ただ》にヅーフ計《ばか》りでなく蘭学書生の為《た》めに写本の注文は盛《さかん》にあったもので自《おのず》から価《あたい》が高い。大阪と較《くら》べて見れば大変高い。加賀の金沢の鈴木儀六《すずきぎろく》と云う男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男が元来一文なしに江戸に居て、辛苦《しんく》して写本で以《もっ》て自分の身を立てたその上に金を貯えた。凡《およ》そ一、二年辛抱して金を二十両ばかり拵《こしら》えて、大阪に出て来て到頭《とうとう》その二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に帰《かえっ》た。是《こ》れなどは全く蘭書写本のお蔭である。その鈴木の考《かんがえ》では、写本をして金を取るのは江戸が宜《い》いが、修業するには如何《どう》しても大阪でなければ本当な事が出来ないと目的を定めて、ソレでその金を持《もっ》て来たのであると話して居ました。
工芸伎術に熱心
夫《そ》れから又一方では今日のように都《すべ》て工芸技術の種子《たね》と云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと云《いっ》てもありはせぬ。化学《ケミスト》の道具にせよ、何処《どこ》にも揃《そろ》ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれども爾《そ》う云《い》う中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理は知《しっ》て居るから、如何《どう》かして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して似寄《により》の物を拵《こしら》えると云うことに就《つい》ては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸|亜鉛《あえん》があれば鉄にも錫《すず》を附けることが出来ると云うことを聞《きい》て知《しっ》て居る。夫《そ》れまで日本では松脂《まつやに》ばかりを用いて居たが、松脂では銅《あかがね》の類《るい》に錫を流して鍍金《めっき》することは出来る。唐金《からかね》の鍋《なべ》に白《しろ》みを掛けるようなもので、鋳掛屋《いかけや》の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、薬店《くすりや》に行ても塩酸のある気遣《きづかい》はない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法に依《よっ》て何《ど》うやら斯《こ》うやら塩酸を拵えて、之《これ》に亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くて堪《たま》らぬ。或《あるい》は又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々|書籍《しょじゃく》を取調《とりしら》べ、天満《てんま》の八百屋市《やおやいち》に行て昆布|荒布《あらめ》のような海草類を買《かっ》て来て、夫《そ》れを炮烙《ほうろく》で煎《いっ》て如何《どう》云う風《ふう》にすれば出来ると云うので、真黒《まっくろ》になって遣《やっ》たけれども是《こ》れは到頭《とうとう》出来ない。それから今度は※[#「石+鹵」、第4水準2-82-52]砂《どうしゃ》製造の野心を起して、先《ま》ず第一の必要は塩酸|暗謨尼亜《アンモニア》であるが、是れも勿論《もちろん》薬店《くすりや》にある品物でない。その暗謨尼亜を造るには如何《どう》するかと云えば、骨《こつ》……骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋《べっこうや》などに馬爪《ばづ》の削屑《けずりくず》がいくらもあって只呉《ただく》れる。肥料にするかせぬか分《わか》らぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリ貰《もらっ》て来て徳利《とくり》に入れて、徳利の外面《そと》に土を塗り、又素焼の大きな瓶《かめ》を買て七輪にして沢山《たくさん》火を起し、その瓶《かめ》の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管《くだ》を附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火を扇《あう》ぎ立てると管の先《さ》きからタラ/\液が出て来る。即《すなわ》ち是《こ》れが暗謨尼亜《アンモニア》である。至極《しごく》旨く取れることは取れるが、爰《ここ》に難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも云《い》いようがない。那《あ》の馬爪《ばづ》、あんな骨類《こつるい》を徳利に入れて蒸焼《むしやき》にするのであるから実に鼻持《はなもち》もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処で遣《や》るのであるから奥で以《もっ》て堪《たま》らぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石《さすが》の乱暴書生も是《こ》れには辟易《へきえき》して迚《とて》も居られない。夕方|湯屋《ゆや》に行くと着物が臭くって犬が吠えると云う訳《わ》け。仮令《たと》い真裸体《まっぱだか》で遣《やっ》ても身体《からだ》が臭いと云《いっ》て人に忌《いや》がられる。勿論《もちろん》製造の本人|等《ら》は如何《どう》でも斯《こ》うでもして※[#「石+鹵」、第4水準2-82-52]砂《どうしゃ》と云う物を拵《こしら》えて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻《しき》りに試みて居るけれども、何分《なにぶん》周辺《まわり》の者が喧《やかま》しい。下女下男|迄《まで》も胸が悪くて御飯《ごはん》が給《た》べられないと訴える。其《そ》れ是《こ》れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉《こ》のような物ばかりで結晶しない。如何《どう》しても完全な※[#「石+鹵」、第4水準2-82-52]砂《どうしゃ》にならない、加《くわ》うるに喧《やかま》しくて/\堪《たま》らぬから一旦|罷《や》めにした。けれども気強《きづよ》い男はマダ罷めない。折角《せっかく》仕掛《しかか》った物が出来ないと云《いっ》ては学者の外聞《がいぶん》が悪いとか何とか云《い》うような訳《わ》けで、私だの久留米の松下元芳《まつしたげんぽう》、鶴田仙庵《つるたせんあん》等は思切《おもいきっ》たが、二、三の人は尚《な》お遣《やっ》た。如何《どう》したかと云うと、淀川《よどがわ》の一番粗末な船を借りて、船頭を一人《ひとり》雇うて、その船に例の瓶《かめ》の七輪《しちりん》を積込《つみこ》んで、船中で今の通りの臭い仕事を遣《や》るは宜《い》いが、矢張《やっぱ》り煙が立《たっ》て風が吹くと、その煙が陸《おか》の方へ吹付《ふきつ》けられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川を上《のぼ》ったり下《くだ》ったり、川上《かわかみ》の天神橋、天満橋《てんまばし》から、ズット下《しも》の玉江橋《たまえばし》辺まで、上下《かみしも》に迯《に》げて廻《まわっ》て遣《やっ》たことがある。その男は中村恭安《なかむらきょうあん》と云う讃岐の金比羅《こんぴら》の医者であった。この外《ほか》にも犬猫は勿論《もちろん》、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は如何《いか》にも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事に就《つい》ても中々勉強したものだ。
製薬の事に就《つい》ても奇談がある。或《あ》るとき硫酸《りゅうさん》を造ろうと云うので、様々|大骨《おおぼね》折《おっ》て不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、之《これ》を精製して透明にしなければならぬと云うので、その日は先《ま》ず茶碗に入れて棚の上に上げて置《おい》た処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かの機《はずみ》にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から冠《かぶ》り、身体《からだ》に左《さ》までの径我《けが》はなかったが、丁度《ちょうど》旧暦四月の頃で一枚の袷《あわせ》をヅタ/″\にした事がある。
製薬には兎角《とかく》徳利《とくり》が入用《にゅうよう》だから、丁度|宜《よろ》しい、塾の近所《きんじょ》の丼池筋《どぶいけすじ》に米藤《こめとう》と云う酒屋が塾の御出入《おでいり》、この酒屋から酒を取寄せて、酒は飲《のん》で仕舞《しまっ》て徳利は留置《とめお》き、何本でもみんな製薬用にして返さぬと云うのだから、酒屋でも少し変に思《おもっ》たと見え、内々《ないない》塾僕に聞合《ききあわ》せると、この節《せつ》書生さんは中実《なかみ》の酒よりも徳利の方に用があると云うので、酒屋は大に驚き、その後何としても酒を持《もっ》て来なくなって困《こまっ》た事がある。
黒田公の原書を引取る
又|筑前《ちくぜん》の国主、黒田美濃守《くろだみののかみ》と云《い》う大名は、今の華族、黒田のお祖父《じい》さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入《しゅつにゅう》して、勿論《もちろん》筑前に行《ゆ》くでもなければ江戸に行くでもない、只《ただ》大阪に居ながら黒田家の御出入医《おでいりい》と云うことであった。故に黒田の殿様が江戸|出府《しゅっぷ》、或《あるい》は帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は屹度《きっと》|中ノ嶋《なかのしま》の筑前屋敷に伺候《しこう》して御機嫌《ごきげん》を伺うと云う常例であった。或歳《あるとし》、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例の如《ごと》く中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅|早々《そうそう》私を呼ぶから、何事かと思て行《いっ》て見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、斯《こ》う云う原書が黒田侯の手に這入《はい》ったと云《いっ》て見せて呉《く》れられたから、一寸《ちょい》と借りて来たと云《い》う。之《これ》を見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を和蘭《オランダ》に翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中《なかんずく》エレキトルの事が如何《いか》にも詳《つまびらか》に書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知《しっ》たと云うのは、只《ただ》纔《わずか》に和蘭の学校|読本《どくほん》の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。所《ところ》がこの新舶来の物理書は英国の大家フ※[#小書き片仮名ハ、1-6-83]ラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何とも唯《ただ》驚くばかりで、一見|直《ただち》に魂《たましい》を奪われた。夫《そ》れから私は先生に向《むかっ》て、「是《こ》れは誠に珍らしい原書で御在《ござい》ますが、何時《いつ》まで此処《ここ》に拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様《さよう》さ。何《いず》れ黒田侯は二晩《ふたばん》とやら大阪に泊ると云う。御出立《ごしゅったつ》になるまでは、彼処《あちら》に入用《にゅうよう》もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持《もっ》て来て、「如何《どう》だ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞《うんか》の如《ごと》く集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書を唯《ただ》見たって何にも役に立たぬ。見ることは止《や》めにして、サア写すのだ。併《しか》し千頁もある大部の書を皆写すことは迚《とて》も出来《でき》られないから、末段のエレキトルの処|丈《だ》け写そう。一同《みんな》筆《ふで》紙《かみ》墨《すみ》の用意して愡掛《そうがか》りだと云た所で茲《ここ》に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を毀《こわ》すことが出来ない。毀して手分《てわけ》て遣《や》れば、三十人も五十人も居るから瞬《またた》く間《ま》に出来て仕舞《しまう》うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙《みょう》を得て居るから、一人《ひとり》が原書を読むと一人は之《これ》を耳に聞《きい》て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍《にぶっ》て来ると直《すぐ》に外《ほか》の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直《すぐ》に寝ると斯《こ》う云《い》う仕組《しくみ》にして、昼夜の別なく、飯《めし》を喰《く》う間《ま》も煙草《タバコ》を喫《の》む間《ま》も休まず、一寸《ちょい》とも隙《ひま》なしに、凡《およ》そ二夜三日《にやさんにち》の間《あいだ》に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合《よみあわせ》まで出来て仕舞《しまっ》て、紙数《かみかず》は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外《ほか》の処も写したいと云《いっ》たが時日《じじつ》が許さない。マア/\是《こ》れだけでも写したのは有難いと云《い》うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は唯《ただ》驚くのみ。固《もと》より自分に買うと云う野心も起りはしない。愈《いよい》よ今夕《こんせき》、侯の御出立《ごしゅったつ》と定《き》まり、私共はその原書を撫《なで》くり廻《まわ》し誠に親に暇乞《いとまごい》をするように別《わかれ》を惜《おし》んで還《かえ》したことがございました。夫《そ》れから後《のち》は塾中にエレキトルの説が全く面目《めんもく》を新《あらた》にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚《はばか》りません。私などが今日でも電気の話を聞《きい》て凡《およ》そその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭《おかげ》である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後|度々《たびたび》今の黒田侯の方へ、ひょっと彼《あ》の原書はなかろうかと問合せましたが、彼方《あっち》でも混雑の際であったから如何《どう》なったか見当らぬと云《い》う。可惜《おし》い事で御在《ござい》ます。
大阪書生の特色
只今《ただいま》申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に就《つい》ては一寸《ちょい》とも怠《おこた》ったことはない。その時の有様《ありさま》を申せば、江戸に居た書生が折節《おりふし》大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々《わざわざ》江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則《すなわ》ち教えると云う方であった。左《さ》れば大阪に限《かぎっ》て日本国中|粒選《つぶえり》のエライ書生の居よう訳《わ》けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然《しか》るに何故《なぜ》ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論《もちろん》その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫《そ》れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自《おのず》から事情が違《ちがっ》て居る。江戸の方では開国の初《はじめ》とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且《か》つ急《きゅう》である。従て聊《いささ》かでも洋書を解《げ》すことの出来る者を雇うとか、或《あるい》は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自《おのず》から生計の道に近い。極《ごく》都合の宜《い》い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百|石《こく》の侍《さぶらい》になったと云《い》うことも稀《まれ》にはあった。夫《そ》れに引換《ひきかえ》て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣《や》ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫《そ》れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程《なにほど》エライ学者になっても、頓《とん》と実際の仕事に縁がない。即《すなわ》ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然《しか》らば何の為《た》めに苦学するかと云えば一寸《ちょい》と説明はない。前途自分の身体《からだ》は如何《どう》なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既《すで》に已《すで》に焼けに成《なっ》て居る。唯《ただ》昼夜苦しんで六《むず》かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳《わ》けの分らぬ身の有様《ありさま》とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩《たた》いて見れば、自《おのず》から楽しみがある。之《これ》を一言《いちげん》すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限《かぎっ》て斯様《こんな》事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見|看《み》る影《かげ》もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯|貴人《きにん》も眼下《がんか》に見下《みくだ》すと云う気位《きぐらい》で、唯《ただ》六かしければ面白い、苦中有楽《くちゅううらく》、苦即楽《くそくらく》と云《い》う境遇であったと思われる。喩《たと》えばこの薬は何に利《き》くか知らぬけれども、自分達より外《ほか》にこんな苦《にが》い薬を能《よ》く呑《の》む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑《のん》で遣《や》ると云う位《くらい》の血気であったに違いはない。
漢家を敵視す
若《も》しも真実その苦学の目的|如何《いかん》なんて問う者あるも、返答は唯《ただ》漠然《ばくぜん》たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖《かいさ》論を云えば固《もと》より開国なれども、甚《はなは》だしく之《これ》を争う者もなく、唯|当《とう》の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でも蚊《か》でも支那流は一切|打払《うちはら》いと云《い》うことは何処《どこ》となく定《き》まって居たようだ。儒者が経史《けいし》の講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯|可笑《おか》しく思うのみ。殊《こと》に漢医書生は之を笑うばかりでなく之を罵詈《ばり》して少しも許さず、緒方塾の近傍、|中ノ島《なかのしま》に花岡《はなおか》と云う漢医の大家があって、その塾の書生は孰《いず》れも福生《ふくせい》と見え服装《みなり》も立派で、中々|以《もっ》て吾々《われわれ》蘭学生の類《たぐい》でない。毎度往来に出逢《であ》うて、固《もと》より言葉も交えず互に睨合《にらみあ》うて行違《ゆきちが》うその跡で、「彼《あ》の様《ざま》ァ如何《どう》だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々《くうくうじゃくじゃく》チンプンカンの講釈を聞《きい》て、その中で古く手垢《てあか》の附《つい》てる奴《やつ》が塾長だ。こんな奴等が二千年来|垢染《あかじ》みた傷寒《しょうかん》論を土産にして、国に帰《かえっ》て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等《あいつら》を根絶やしにして呼吸《いき》の音《ね》を止《と》めて遣《や》るからなんてワイ/\云《いっ》たのは毎度の事であるが、是《こ》れとても此方《こっち》に如斯《こう》と云う成算《せいさん》も何もない。唯《ただ》漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔《きえん》を吐くばかりの事である。
目的なしの勉強
兎《と》に角《かく》に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却《かえっ》て仕合《しあわせ》で、江戸の書生よりも能《よ》く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先《ゆくさき》ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左《さ》ればと云《いっ》て只《ただ》迂闊《うかつ》に本ばかり見て居るのは最も宜《よろ》しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末《ゆくすえ》のみ考えて、如何《どう》したらば立身が出来るだろうか、如何《どう》したらば金が手に這入《はい》るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何《どう》すれば旨い物を喰《く》い好《い》い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪《あくせく》勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自《みず》から静《しずか》にして居らなければならぬと云う理屈が茲《ここ》に出て来ようと思う。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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