初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
欧羅巴各国に行く
私が亜米利加《アメリカ》から帰《かえっ》たのは万延元年、その年に華英通語《かえいつうご》と云うものを飜訳して出版したことがある。是《こ》れが抑《そもそ》も私が出版の始まり、先《ま》ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で以《もっ》て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴《ヨーロッパ》諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には私《ひそか》に木村摂津守《きむらせっつのかみ》に懇願して、その従僕と云うことにして連れて行《いっ》て貰《もらっ》たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴|行《ゆき》を命ぜられたのであるから、自《おのず》から一人前《いちにんまえ》の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰《もらっ》たかと思う。旅中は一切官費で、只《ただ》手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生《へいぜい》頓《とん》と金の要《い》らない男で、徒《いたずら》に金を費すと云《い》うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に居《お》る母に送《おくっ》てやった。如何《いか》にも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加《アメリカ》から帰《かえっ》てマダ国へ親の機嫌を聞きに行《ゆ》きもせずに、重ねて欧羅巴《ヨーロッパ》に行くと云うのだから、如何《いか》にも済まない。而已《のみ》ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞《ふうぶん》を立てゝ、亜米利加に行《いっ》て彼《か》の地で死んだと云い、甚《はなは》だしきに至れば現在の親類の中の一人《ひとり》が私共の母に向《むかっ》て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体《からだ》は醢《しおづ》けにして江戸に持《もっ》て帰たそうだなんと、威《おど》すのか冷《ひやか》すのかソンな事まで云《いっ》て母を嬲《なぶっ》て居たと云うような事で、是《こ》れも時節|柄《がら》で我慢して黙《だまっ》て居るより外《ほか》に仕方《しかた》がないとして居ながら、母に対しては如何《いか》にも気が済まない。金をやったからと云てソレで償《つぐな》える訳《わ》けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て遣《や》ろうと思て、幕府から請取《うけとっ》た金を分《わ》けて送りました。
それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度《たび》の船は日本の使節が行《ゆ》くと云う為《た》めに、英吉利《イギリス》から迎船《むかいぶね》のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗《のっ》て香港《ホンコン》、新嘉堡《シンガポール》と云うような印度《インド》洋の港々《みなとみなと》に立寄り、紅海に這入《はいっ》て、蘇士《スエズ》から上陸して蒸気車に乗て、埃及《エジプト》のカイロ府に着《つい》て二晩《ふたばん》ばかり泊り、それから地中海に出て、其処《そこ》から又船に乗て仏蘭西《フランス》の馬塞耳《マルセイユ》、ソコデ蒸汽車に乗て里昂《リオン》に一泊、巴里《パリ》に着て滞在|凡《およ》そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利《イギリス》に渡り、英吉利から和蘭《オランダ》、和蘭から普魯西《プロス》の都の伯林《ベルリン》に行き、伯林から露西亜《ロシア》のペートルスボルグ、夫《そ》れから再び巴里に帰《かえっ》て来て、仏蘭西から船に乗《のっ》て、葡萄牙《ポルトガル》に行き、ソレカラ地中海に這入《はいっ》て、元の通りの順路を経《へ》て帰て来たその間の年月は凡《およ》そ一箇年、即《すなわ》ち文久二年一杯、推詰《おしつまっ》てから日本に帰て来ました。
扨《さて》今度の旅行に就《つい》て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云《い》うことが徐々《そろそろ》出来て、夫《そ》れから前に申す通りに金も聊《いささ》か持《もっ》て居るその金は何も遣《つか》い所はないから、只《ただ》日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈《だ》けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要《い》る訳《わ》けがない、その余《あまっ》た金は皆|携《たずさ》えて行て竜動《ロンドン》に逗留中、外《ほか》に買物もない、唯《ただ》英書ばかりを買て来た。是《こ》れが抑《そもそ》も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是《こ》れからの事である。
夫《そ》れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是《こ》れは後の話にして、先《ま》ず使節一行の有様《ありさま》を申さんに、その人員は、
竹内下野守《たけのうちしもつけのかみ》 正使
松平石見守《まつだいらいわみのかみ》 副使
京極能登守《きょうごくのとのかみ》 御目付
柴田貞太郎《しばたさだたろう》 組頭
日高圭三郎《ひたかけいざぶろう》 御勘定
福田作太郎《ふくださくたろう》 御徒士目付
水品楽太郎《みずしならくたろう》 調役
岡綺藤左衛門《おかざきとうざえもん》 同
高嶋祐啓《たかしまゆうけい》 御医師但し漢方医なり
川崎道民《かわさきどうみん》 雇医
益頭駿次郎《ましずすんじろう》 御普請役
上田友助《うえだゆうすけ》 定役元締
森鉢太郎《もりはちたろう》 定役
福地源一郎《ふくちげんいちろう》 通弁
立広作《たちこうさく》 同
太田源三郎《おおたげんざぶろう》 同
斎藤大之進《さいとうだいのしん》 同心
高松彦三郎《たかまつひこさぶろう》 御小人目付
山田八郎《やまだはちろう》 同
松木弘安《まつきこうあん》 反訳方
箕作秋坪《みつくりしゅうへい》 同
福澤諭吉《ふくざわゆきち》 同
右の外《ほか》に三使節の家来両三人ずつと、賄《まかない》小使《こづかい》六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先《ま》ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂《いわゆる》陪臣《ばいしん》の身分であるから、一行中の一番|下席《かせき》で惣人数《そうにんず》凡そ四十人足らず、孰《いず》れも日本服に大小を横《よこた》えて巴里《パリ》、竜動《ロンドン》を闊歩《かっぽ》したも可笑《おか》しい。
旅行中用意の品々失策又失策
日本出発|前《ぜん》に外国は何でも食物が不自由だからと云《い》うので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧《ひょうろう》を貯え、又旅中|止宿《ししゅく》の用意と云うので、廊下に灯《とも》す金行灯《かなあんどん》=二尺《にしゃく》四方もある鉄網《てつあみ》作りの行灯を何十台も作り、その外《ほか》提灯《ちょうちん》、手燭《てしょく》、ボンボリ、蝋燭《ろうそく》等に至るまで一切|取揃《とりそろ》えて船に積込《つみこ》んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅《しゅくえき》の本陣に止宿する位《くらい》の胸算《きょうさん》に違いない。夫《そ》れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて先《ま》ず此方《こっち》よりの所望《しょもう》は、随行員も多勢《たぜい》なり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むと云《い》うのは、万事|不取締《ふとりしまり》不安心だから、一行の者を使節の近処《きんじょ》に置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、先《ま》ず人数を聞糺《ききただ》し、惣勢《そうぜい》三十何人と分《わかっ》て、「是《こ》ればかりの人数なれば一軒の旅館に十組《とくみ》や二十組は引受けますとの答に、何の事やら訳《わ》けが分《わか》らぬ。ソレカラ案内に連《つれ》られて止宿した旅館は、巴里《パリ》の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕《ひぼく》五百余人、旅客は千人以上|差支《さしつかえ》なしと云うので、日本の使節などは何処《どこ》に居るやら分らぬ。唯《ただ》旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室には温《あたた》めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の瓦斯灯《ガスとう》は室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何《いか》なる西洋嫌いも口腹《こうふく》に攘夷の念はない、皆喜んで之《これ》を味《あじわ》うから、爰《ここ》に手持不沙汰《てもちぶさた》なるは日本から脊負《しょっ》て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯《かなあんどん》を点《つ》けるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯《めし》を炊《た》くことも出来ず、とう/\仕舞《しまい》には米を始め諸道具一切の雑物《ぞうぶつ》を、接待|掛《がか》りの下役《したやく》のランベヤと云う男に進上して、唯《ただ》貰《もらっ》て貰《もら》うたのも可笑《おか》しかった。
先《ま》ずこんな塩梅式《あんばいしき》だから、吾々《われわれ》一行の失策|物笑《ものわら》いは数《かず》限りもない。シガーとシュガーを間違えて烟草《タバコ》を買いに遣《やっ》て砂糖を持《もっ》て来るもあり、医者は人参《にんじん》と思《おもっ》て買《かっ》て来て生姜《しょうが》の粉《こ》であったこともある。又|或《あ》るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリを持《もっ》て御供《おとも》をして、便所の二重の戸を明放《あけはな》しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴《はかま》着用《ちゃくよう》、殿様の御腰《おこし》の物を持て、便所の外の廊下に平《ひら》き直《なおっ》てチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来|織《お》るが如《ごと》くにして、便所の内外|瓦斯《ガス》の光明《こうめい》昼よりも明《あきらか》なりと云《い》うから堪《たま》らない。私は丁度《ちょうど》其処《そこ》を通り掛《かかっ》て、驚いたとも驚くまいとも、先《ま》ず表に立塞《たちふさ》がって物も言わずに戸を打締《ぶちし》めて、夫《そ》れからそろ/\その家来殿に話したことがある。
欧洲の政風人情
政治上の事に就《つい》ては竜動《ロンドン》、巴里《パリ》等《とう》に在留中、色々な人に逢うて色々な事を聞《きい》たが、固《もと》よりその事柄の由来を知らぬから能《よ》く分《わか》る訳《わ》けもない。当時は仏蘭西《フランス》の第三世ナポレヲンが欧洲第一の政治家と持囃《もてはや》されてエライ勢力であったが、隣国の普魯士《プロス》も日の出の新進国で油断はならぬ。墺地利《オーストリア》との戦争、又アルサス、ローレンスの事なども国交際《こっこうさい》の問題として、何《いず》れ後年には云々の変乱が生ずるであろうなんと云《い》うことは朝野《ちょうや》政通《せいつう》の予言する所で、私の日記|覚書《おぼえがき》にもチョイ/\記してある。又竜動に居るとき、或《あ》る社中の人が社名を以《もっ》て議院に建言したと云《い》うて、その草稿を日本使節に送《おくっ》て来た。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコツクが新開国たる日本に居て乱暴無状、恰《あたか》も武力を以《もっ》て征服したる国民に臨むが如《ごと》し云々とて、種々《しゅじゅ》様々の証拠を挙げて公使の罪を責るその証拠の一つに、公使アールコツクが日本国民の霊場として尊拝《そんぱい》する芝の山内《さんない》に騎馬にて乗込《のりこみ》たるが如き言語《ごんご》に絶えたる無礼なりと痛論したる節《ふし》もある。私はこの建言書を見て大《おおい》に胸が下《さが》った。成《な》るほど世界は鬼ばかりでない、是《こ》れまで外国政府の仕振《しぶり》を見れば、日本の弱身に付込み日本人の不文《ふぶん》殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛《しか》けて真実|困《こまっ》て居たが、その本国に来て見れば〔自《おのず》から〕公明正大、優しき人もあるものだと思て、ます/\平生《へいぜい》の主義たる開国一偏の説を堅固《けんご》にしたことがある。
土地の売買勝手次第
又各国巡回中、待遇の最も濃《こまやか》なるは和蘭《オランダ》の右に出《いず》るものはない。是れは三百年来特別の関係で爾《そ》うなければならぬ。殊《こと》に私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば欧羅巴《ヨーロッパ》中第二の故郷に帰《かえっ》たような訳《わ》けで自然に居心《いごころ》が宜《い》い。夫《そ》れは扨置《さてお》き和蘭滞留中に奇談がある。或《あ》るとき使節がアムストルダムに行《いっ》て地方の紳士紳商に面会、四方八方《よもやま》の話の序《ついで》に、使節の問《とい》に、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかと云《い》うに、彼《か》の人答えて、「固《もと》より自由自在。「外国人へも売るか。「値段《ねだん》次第、誰にでも、又何ほどにても。「左《さ》れば爰《ここ》に外国人が大資本を投じて広く上地を買占《かいし》め、之《これ》に城廓砲台でも築くことがあったら、夫《そ》れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事は是《こ》れまで考えたことはない。如何《いか》に英仏その他の国々に金満家《きんまんか》が多いとて、他国の地面を買《かっ》て城を築くような馬鹿気《ばかげ》た商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に可笑《おか》しかったが、当時日本の外交政略は凡《およ》そこの辺から割出したものであるから堪《たま》らない訳《わ》けさ。
見物自由の中又不自由
夫れは扨居《さてお》き、私がこの前|亜米利加《アメリカ》に行《いっ》たときには、カリフ※[#小書き片仮名ヲ、160-9]ルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論《もちろん》鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士《スエズ》に上《あがっ》て始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴《ヨーロッパ》各国を彼方此方《あちこち》と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部《クラブ》等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、或《あるい》は名ある人の家に晩餐《ばんさん》の饗応《きょうおう》、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、却《かえっ》て招待の多いのに草臥《くたび》れると云う程の次第であったが、唯《ただ》こゝに一つ可笑《おか》しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角《とかく》外国人に遇《あ》うことを止《と》めようとするのが可笑《おか》しい。使節は竹内《たけのうち》、松平《まつだいら》、京極《きょうごく》の三使節、その中の京極は御目附《おめつけ》と云《い》う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を目《め》ッ張子《ぱりこ》で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが六《むず》かしい。同行者は何《いず》れも幕府の役人連で、その中に先《ま》ず同志同感、互に目的を共にすると云《い》うのは箕作秋坪《みつくりしゅうへい》と松木弘安《まつきこうあん》と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方《あちら》に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと計《ばか》りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、殊《こと》に三人とも陪臣《ばいしん》で、然《し》かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方《おめつけがた》の下役《したやく》が附いて行かなければならぬと云う御定《おさだ》まりで始終|附《つい》て廻《まわ》る。此方《こっち》は固《もと》より密売しようではなし、国の秘密を洩《も》らす気遣《きづか》いもないが、妙な役人が附て来れば只《ただ》蒼蠅《うるさ》い。蒼蠅いのはマダ宜《よ》いが、その下役が何か外《ほか》に差支《さしつかえ》があると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚《はなは》だ不自由でした。私はその時に==是《こ》れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ担《かつ》いで来て、欧羅巴《ヨーロッパ》各国を巡回するようなものだと云《いっ》て、三人で笑《わらっ》たことがあります。
血を恐れる
ソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事は聞《きい》たが、序《ついで》ながらこの見聞《けんもん》のことに就《つい》て私の身の恥を云《い》わねばならぬ。私は少年の時から至極《しごく》元気の宜《い》い男で、時として大言壮語《たいげんそうご》したことも多いが、天禀《うまれつき》気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]《しらく》流行の時代で、同窓生は勿論《もちろん》私も腕の脈に針をして血を取《とっ》たことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持《こころもち》が善《よ》くないから、刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]と云えばチャント眼《め》を閉じて見ないようにして居る。腫物《しゅもつ》が出来ても針をすることは先《ま》ず見合せたいと云《い》い、一寸《ちょっ》とした怪我でも血が出ると顔色《がんしょく》が青くなる。毎度都会の地にある行倒《ゆきだおれ》、首縊《くびくくり》、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が露西亜《ロシア》に滞留中、或《あ》る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に箕作《みつくり》も松木《まつき》も医者だから直《す》ぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入《はいっ》て見れば石淋《せきりん》を取出す手術で、執刀の医師は合羽《かっぱ》を着て、病人をば俎《まないた》のような台の上に寝かして、コロヽホルムを臭《か》がせて先《ま》ず之《これ》を殺して、夫《そ》れからその医師が光り燿《かがや》く刀《とう》を執《とっ》てグット制すと、大造《たいそう》な血が迸《ほとばし》って医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の切口《きりぐち》に釘抜《くぎぬき》のようなものを入れて膀胱《ぼうこう》の中にある石を取出すとか云《い》う様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎《やまだはちろう》と云《い》う男が私を助けて室外に連出《つれだ》し、水など呑《の》まして呉《く》れてヤット正気に返《かえっ》た。その前|独逸《ドイツ》の伯林《ベルリン》の眼《がん》病院でも、欹目《やぶにらみ》の手術とて子供の眼《め》に刀《とう》を刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。松木《まつき》も箕作《みつくり》も私に意気地《いくじ》がないと云《いっ》て頻《しき》りに冷《ひや》かすけれども、持《もっ》て生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。
事情探索の胸算
夫《そ》れは扨置《さてお》き私の欧羅巴《ヨーロッパ》巡回中の胸算《きょうさん》は、凡《およ》そ書籍《しょじゃく》上で調べられる事は日本に居ても原書を読《よん》で分《わか》らぬ処は字引《じびき》を引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分り易《やす》い事で殆《ほと》んど字引にも載《の》せないと云《い》うような事が此方《こっち》では一番|六《むず》かしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだと思《おもっ》て、その方向で以《もっ》て是《こ》れは相当の人だと思えばその人に就《つい》て調べると云うことに力を尽して、聞くに従て一寸々々《ちょいちょい》斯《こ》う云うように(この時先生|細長《ほそなが》くして古々《ふるぶる》しき一小冊子を示す)記して置《おい》て、夫れから日本に帰《かえっ》てからソレを台にして尚《な》お色々な原書を調べ又記憶する所を綴合《つづりあわ》せて西洋事情と云うものが出来ました。凡《およ》そ理化学、器械学の事に於《おい》て、或《あるい》はエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくても宜《よろ》しいと云《い》うのは、元来私が専門学者ではなし、聞《きい》た所が真実深い意味の分る訳《わ》けはない、唯《ただ》一通《ひととお》りの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易に分《わか》るから、コンナ事の詮索《せんさく》は先《ま》ず二の次にして、外《ほか》に知りたいことが沢山《たくさん》ある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費《にゅうひ》の金はどんな塩梅《あんばい》にして誰が出して居るのか、又|銀行《バンク》と云うものがあってその金の支出入は如何《どう》して居《い》るか、郵便法が行《おこなわ》れて居てその法は如何《どう》云う趣向にしてあるのか、仏蘭西《フランス》では徴兵令を※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]行《れいこう》して居るが英吉利《イギリス》には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、抑《そ》も如何《どう》云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓《とん》と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無《かいむ》分らない。分らないから選拳法とは如何《どん》な法律で議院とは如何《どん》な役所かと尋ねると、彼方《あっち》の人は只《ただ》笑《わらっ》て居る、何を聞くのか分り切《きっ》た事だと云う様な訳《わけ》。ソレが此方《こっち》では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬《しのぎ》を削《けずっ》て争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも考《かんがえ》の付こう筈《はず》がない。彼《あ》の人と此《こ》の人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を飲《のん》で飯を喰《くっ》て居る。少しも分らない。ソレが略《ほぼ》分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その謂《いわ》れ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組《いりく》んだ事柄になると五日も十日も掛《かかっ》てヤット胸に落ると云《い》うような訳《わけ》で、ソレが今度洋行の利益でした。
樺太の境界談判
それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中、次第々々に攘夷論が盛《さかん》になって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節が露西亜《ロシア》に行《いっ》た時に此方《こっち》から樺太《カラフト》の境論《さかいろん》を持出《もちだ》して、その談判の席には私も出て居たので、日本の使節がソレを云出《いいだ》すと先方は少しも取合わない。或《あるい》は地図などを持出して、地図の色は斯《こ》う/\云う色ではないか、自《おのず》から此処《ここ》が境だと云うと、露西亜人の云うには、地図の色で境が極《きま》れば、この地図を皆赤くすれば世界中露西亜の領分になって仕舞《しま》うだろう、又これを青くすれば世界中日本領になるだろうと云うような調子で漫語放言《まんごほうげん》、迚《とて》も寄付《よりつ》かれない。マア兎《と》にも角《かく》にもお互に実地を調べたその上の事に為《し》ようと云うので、樺太の境は極《き》めずに宜加減《いいかげん》にして談判は罷《やめ》になりましたが、ソレを私が傍《そば》から聞て居て、是《こ》れは迚も仕様《しよう》がない、一切万事|便《たよ》る所なし、日本の不文不明の奴等《やつら》が※[#「士/冖/一/几」、第4水準2-5-22]威張《からいば》りして攘夷論が盛《さかん》になればなる程、日本の国力は段々弱くなる丈《だ》けの話で、仕舞《しまい》には如何《どう》云うようになり果てるだろうかと思《おもっ》て、実に情けなくなりました。
露政府の厚遇
国交際《こっこうさい》の談判は右の通りに水臭《みずくさ》い次第であるが、使節に対する私《わたくし》の待遇は爾《そ》うでない。ペートルスボルグ滞在中は日本使節一行の為《た》めに特に官舎を貸渡《かしわた》して、接待委員と云《い》う者が四、五人あってその官舎に詰切《つめき》りで、いろ/\饗応《きょうおう》するその饗応の仕方《しかた》と云うは頗《すこぶ》る手厚く、何《な》に一つ遺憾はないと云う有様。ソレで御用がない時は名所旧跡を始め諸所の工場と云うような所に案内して見せて呉《く》れる。その中に段々接待委員の人々と懇意になって種々《しゅじゅ》様々な話もしたが、その節《せつ》露西亜《ロシア》に日本人が一人|居《お》ると云う噂《うわさ》を聞《きい》たその噂は、どうも間違ない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないと云う。勿論《もちろん》その噂は接待委員から聞《きい》たのではない。その外《ほか》の人から洩《も》れたのであるが、先《ま》ず公然の秘密と云う位《くらい》な事で、チャント分《わかっ》て居た。そのヤマトフに遇《あっ》て見たいと思うけれどもなか/\遇《あ》われない。到頭《とうとう》逗留中出て来《こ》ない。出て来ないがその接待中の模様に至《いたっ》ては動《やや》もすると日本風の事がある。例えば室内に刀掛《かたなかけ》があり、寝床《ベッド》には日本流の木の枕があり、湯殿《ゆどの》には糟《ぬか》を入れた糟袋があり、食物も勉《つと》めて日本調理の風《ふう》にして箸《はし》茶椀なども日本の物に似て居る。どうしても露西亜人の思付《おもいつ》く物でない。シテ見ると噂の通り何処《どこ》にか日本人の居るのは間違いない、明《あきらか》に分《わかっ》て居るけれども、到頭分らずに帰《かえっ》て仕舞《しま》いました。私の西航日記にこの事を記して、その傍《かたわら》に詩のようなものが一寸《ちょい》と書てある。
起来就食々終眠、飽食安眠過一年、
他日若遇相識問、欧天不異故郷天
今日になって一々記憶もないが、余程《よほど》日本流の事が多かったと思われます。
露国に止まることを勧む
夫《そ》れから或日《あるひ》の事で、その接待委員の一人が私の処に来て、一寸《ちょいと》こちらに来て呉《く》れろと云《いっ》て、一間《ひとま》に私を連れて行《いっ》た。何だと云て話をすると、私の一身上の事に及んで、お前はこの度《たび》使節に付て来たが、是《こ》れから先は日本に帰《かえっ》て何をする所存《つもり》かソリャ勿論《もちろん》知らないが、お前は大層《たいそう》金持《かねもち》かと尋ねるから、「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をして居る、用をして居れば自《おのずか》らその報酬と云《い》うものがあるから衣食の道に差支《さしつかえ》はないものだと、斯《こ》う私は答えた。所が接待委員の云うに、「日本の事だから我々に委《くわ》しい事情の分《わか》る訳《わ》けはない、分りはしないけれども、どうも大体を考えて見た所で日本は小国だ、アヽ云《い》う小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイと茲《ここ》に心を変えてこの露西亜《ロシア》に止《と》まらないかと云うから、私は答えて、「自分の身は使節に随従して来て居るものであるから、爾《そ》う勝手に止《と》まられる訳《わ》けのものじゃないと有りのまゝに云うと、「イヤ夫《そ》れは造作《ぞうさ》もない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になれば直《す》ぐに私が隠して遣《や》る。どうせ使節は長く此処《ここ》に居る気遣《きづかい》はない、間もなく帰る。帰ればソレ切《きり》だ。そうしてお前は露西亜人になって仕舞《しま》いなさい。この露西亜には外国の人は幾らも来て居る、就中《なかんずく》独逸《ドイツ》の人などは大変に多い、その外《ほか》和蘭《オランダ》人も来て居れば英吉利《イギリス》人も来て居る。だから日本人が来て居たからと云《いっ》て何も珍しい事はない、是非《ぜひ》此処《ここ》に止《と》まれ。いよ/\止《とま》ると決すれば、その上はどんな仕事でも為《し》ようと思えば面白い愉快な仕事は沢山《たくさん》ある。衣食住の安心は勿論《もちろん》、随分|金持《かねもち》になる事も出来るから止まれと懇《ねんごろ》に説いたのは、決して尋常の戯れでない。チャント一間《ひとま》の中に差向《さしむか》いで真面目《まじめ》になって話したのである。けれども私がその時に止まると云う必要もなければ、又止まろうと云う気もない。宜《い》い加減に返答をして置くと、その後《ご》二、三度同じような事を云《いっ》て来たが、固《もと》より話は纏《まとま》らず。その時に私は大に心付《こころづ》きました、成程《なるほど》露西亜《ロシア》は欧羅巴《ヨーロッパ》の中で一種風俗の変《かわっ》た国だと云《い》うが、ソレに違いない。例えば今度英仏にも暫《しばら》く滞留し、又前年|亜米利加《アメリカ》に行《いっ》たときにも、人に逢《あ》いさえすれば日本に行《ゆ》こう/\と云う者が多い。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて行《いっ》て呉《く》れないかと、ソリャもう行《ゆ》く先々《さきざき》でうるさいように云《い》う者はあれども、遂《つい》ぞ止《と》まれと云うことを只《ただ》の一度も云《いっ》た人はない。露西亜《ロシア》に来て始めて止まれと云う話を聞た、その趣《おもむき》を推察すれば、決して是《こ》れは商売上の話ではない、如何《どう》しても政治上又国交際上の意味を含んで居るに違いない。こりゃどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれと云う所を見れば、或《あるい》は陰険の手段を施す為《た》めではないか知らんと思うた事があった。けれどもそんな事を聞《きい》たと云うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑を蒙《こうむ》るまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論《もちろん》、日本に帰《かえっ》て来ても人に云わずに黙《だまっ》て居ました。或《あるい》は爾《そ》う云うことを云われたのは私一人でなく、同行の者も同じ事を云われて、私と同じ考えで黙て居た者があったかも知れない。兎《と》に角《かく》に気の知れぬ国だと思われる。
生麦の報道到来して使節苦しむ
夫《そ》れから露西亜《ロシア》を去て仏蘭西《フランス》に帰り、いよ/\出発と云うその時は生麦《なまむぎ》の大《おお》騒動、即《すなわ》ち生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩の侍《さむらい》が斬《きっ》たと云うことが丁度《ちょうど》彼方《あっち》に報告になった時で、サア仏蘭西のナポレオン政府が吾々《われわれ》日本人に対して気不味《きまず》くなって来た。人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡|不愛相《ふあいそう》になった事は甚《はなは》だしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何《どう》にも云《い》い様がない。日本の使節が港から船に乗ろうと云うその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと并《なら》べて見送らした。是《こ》れは敬礼を尽すのではなくして日本人を威《おど》かしたに違いない。兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つ訳《わ》けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々《にがにが》しい有様と云うものは実に堪《たま》らない訳《わ》けであった。私の西航記中の一節に、
閏《うるう》八月十三日[#割り注]文久二年[#割り注終わり]朝八時ロシフ※[#小書き片仮名ヲ、170-7]ルトに着《ちゃく》。ロシフ※[#小書き片仮名ヲ、170-7]ルトは巴里《パリ》より仏里にて九十里の処にある仏蘭西《フランス》の海軍港なり。蒸気車より下《お》り船に乗るまでの路《みち》十余町、この間《あいだ》盛《さかん》に護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似て或《あるい》は威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、此処《ここ》に着して暫時も休息せしめず車より下《お》りて直《ただち》に又船に乗らしむ。且《か》つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。
ソレカラ仏蘭西を出発して葡萄牙《ポルトガル》のリスボンに寄港し、使節の公用を済《すま》して又船に乗り、地中海に入り、印度《インド》洋に出て、海上無事、日本に帰《かえっ》て見れば攘夷論の真盛りだ。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
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