初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
暗殺の心配
是《こ》れまで御話し申した通り、私の言行は有心故造《ゆうしんこぞう》態《わざ》と敵を求める訳《わ》けでは固《もと》よりないが、鎖国風の日本に居て一際《ひときわ》目立つ様《よう》に開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がない。その敵も口で彼是《かれこれ》喧《やかま》しく云《い》うて罵詈《ばり》する位は何でもないが、唯《ただ》怖くて堪《たま》らぬのは襲撃暗殺の一事です。是《こ》れから少しその事を述べましょうが、凡《およ》そ世の中に我身に取《とっ》て好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味は狙われた者より外《ほか》に分るまいと思う。実に何とも口にも言われず筆にも書かれません。是れが病気を煩《わずら》うとか、痛所《いたみどころ》があるとか何とか云《い》えば、家内に相談し朋友に謀《はか》ると云う様なこともあるが、暗殺ばかりは家内の者へ云えば当人よりは却《かえっ》て家の者が心配しましょう、心配して呉《く》れてソレが何にも役に立たぬ、ダカラ私はそんな事を家内の者に云《いっ》た事もなければ親友に告げた事もない。固《もと》よりこの身に罪はない、仮令《たと》い粗われても恥かしい事ではないと云うことは分切《わかりきっ》て居ても、人に語《かたっ》て無益の事であるから、心配するのは自分一人である。私が暗殺を心配したのは毎度の事で、或《あるい》は風声鶴唳《ふうせいかくれい》にも驚きました。丁度今の狂犬を見たようなもので、おとなしい犬でも気味が悪いと云《い》うような訳《わ》けで、どうも人を見ると気味がわるい。
床の下から逃げる積り
ソレに就《つい》ては色々面白い話がある。今この三田《みた》の屋敷の門を這入《はいっ》て右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請《ふしん》をするとき、私は大工に命じて家の床《ゆか》を少し高くして、押入の処に揚板《あげいた》を造《つくっ》て置《おい》たと云うのは、若《も》し例の奴等《やつら》に踏込まれた時に、旨《うま》く逃げられゝば宜《よ》いが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て其処《そこ》から逃出《にげだ》そうと云う私の秘計で、今でも彼処《あすこ》の家は爾《そ》うなって居ましょう。
暗殺の歴史
その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、詰《つま》り私独りの苦労で、実に馬鹿気《ばかげ》た事ですが、夫《そ》れは差置《さしお》き、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初は唯《ただ》新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人は穢《けが》れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々《おりおり》外国人を暗打《やみうち》にしたこともある。併《しか》しその若武者も日本人を憎む訳《わ》けはないから、私などが仮令《たと》い時の洋学書生であっても災に罹《かか》る筈はない。大阪修業中は勿論《もちろん》、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で露西亜《ロシア》人の斬られたことなどは、唯《ただ》その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は俄《にわか》に進歩して殺人《ひとごろし》の法が綿密になり、筋道《すじみち》が分《わか》り、区域が広くなり、之《これ》に加《くわ》うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊《いい》大老の事変後は世上何となく殺気を催《もよお》して、手塚律蔵《てづかりつぞう》、東条礼蔵《とうじょうれいぞう》は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎《はなわじろう》は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬《き》られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと云《い》うような風潮になって来ました。是《こ》れが即《すなわ》ち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、然《しか》るに幕府の攘夷論は兎角《とかく》因循姑息《いんじゅんこそく》に流れて埒《らち》が明かぬ、即ち京都の御趣意《ごしゅい》に背《そむ》くものである、尊王の大義を弁《わきま》えぬものである、外国人に媚びるものである、と斯《こ》う云《い》えば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。殊《こと》に私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。
廻国巡礼を羨む
又真実怖い事もある。凡《およ》そ維新前、文久二、三年から維新後、明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京に居て夜分は決して外出せず、余儀《よぎ》なく旅行するときは姓名を偽《いつわ》り、荷物にも福澤と記さず、コソ/\して往来するその有様《ありさま》は、欠落者《かけおちもの》が人目を忍び、泥坊《どろぼう》が逃げて廻《ま》わるような風《ふう》で、誠に面白くない。そのとき途中で廻国巡礼に出逢い、その笠を見れば何の国何都何村の何某《なにがし》と明白に書《かい》てある。「扨《さて》々|羨《うらや》ましい事だ、乃公《おれ》もアヽ云《い》う身分になって見たいと、自分の身を思い又世の有様を考えて、妙な心持になって、ソレからその巡礼に銭など与えて、貴様達は夫婦か、故郷に子はないか、親はあるか、など色々話し、問答して別れたことは今に覚えて居ます。
長州室津の心配
是《こ》れも私が姓名を隠して豊前《ぶぜん》中津《なかつ》から江戸に帰《かえっ》て来た時の事です。元治元年、私が中津に行《いっ》て、小幡篤次郎《おばたとくじろう》兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から先《ま》ず船に乗《のっ》て出帆《しゅっぱん》すると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処《どこ》の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州《ちょうしゅう》室津《むろつ》と云う港に船が着《つい》た。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎《みわみつごろう》(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗《なのっ》て居たが、一寸《ちょいと》上陸して髪結床《かみゆいどこ》に行《いっ》た所が、床の親仁《おやじ》が喋々《ちょうちょう》述べて居る、「幕府を打潰《ぶっつぶ》す――毛唐人を追巻《おいま》くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門《ながと》は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装《なり》をして鉄砲を担《かつ》いで威張《いばっ》て居るから、若《も》しも福澤と云《い》う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、爰《ここ》が大事と思い態《わざ》と平気な顔をして、唯《ただ》順風を祈《いのっ》て船の出られるのを待《まっ》て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者《いざり》が病犬《やまいぬ》に囲まれたようなものでした。
箱根の心配
ソレから船は大阪に着《つい》て上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の破不屋《はふや》と云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田|何某《なにがし》と云う人が江戸の方から来て先《さ》きに泊《とまっ》て居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢|附《つい》て居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駈出《かけだ》してコソ/\逃げたことがある。
中村栗園先生の門を素通り
その時の道中であったか、江州《ごうしゅう》水口《みなくち》、中村栗園《なかむらりつえん》先生の門前を素通《すどお》りしましたが、是《こ》れは甚《はなは》だ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して其処《そこ》へ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の御親父《ごしんぷ》の大阪で御不幸の時は、私は直《す》ぐ大阪に行《いっ》て、ソレからお前達が船に乗《のっ》て中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口《あじかわぐち》の船まで行《いっ》て別れた。そのときお前は年弱《としよわ》の三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親に逢《あっ》たような心持がして、今晩は是非《ぜひ》泊れと云《いっ》て、中村の家に一泊しました。斯《か》くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来|専《もっぱ》ら孫子の講釈をして、玄関には具足《ぐそく》などが飾《かざっ》てあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも立寄《たちよっ》て訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子《もんていし》が沢山《たくさん》居るから、立寄れば迚《とて》も助からぬと思《おもっ》て、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、遂《つい》に故人になられました。今日に至るまでも甚《はなは》だ心残りで不愉快に思います、
増田宗太郎に窺わる
以上は維新前の事で、直《ただち》に私の身に害を及ぼしたでもなし、唯《ただ》無暗《むやみ》に私が怖く思《おもっ》たばかり、所謂《いわゆる》世間の風声鶴唳《ふうせいかくれい》に臆病心を起したのかも知れないが、維新後になっても忌《いや》な風聞は絶えず行われて、何分にも不安心のみか、歳月を経《へ》て後に聞けば、実際恐るべき事も毎度のことでした。頃は明治三年、私が豊前《ぶぜん》中津《なかつ》へ老母の迎いに参《まいっ》て、母と姪と両人を守護して東京に帰《かえっ》たことがあります。その時は中津滞留も左《さ》まで怖いとも思わず、先《ま》ず安心して居ましたが、数年の後に至《いたっ》て実際の話を聞けば、恐ろしいとも何とも、実に命拾いをしたような事です。私の再従弟《またいとこ》に増田《ますだ》宗[#「宗」に「〔宋〕」の注記]太部と云う男があります。この男は後に九州西南の役に賊軍に投じて城山で死に就《つい》た一種の人物で、世間にも名を知られて居ますが、私が中津に行《いっ》たときはマダ年も若く、私より十三、四歳も下ですから、私は之《これ》を子供のように思い、且《か》つ住居の家も近処《きんじょ》で朝夕往来して交際は前年の通り、宗《そう》さん/\と云《いっ》て親しくして居ましたが、元来《がんらい》この宗[#「宗」に「〔宋〕」の注記]太郎の母は神官の家の妹で、その神官の倅《せがれ》即《すなわ》ち宗太郎の従兄《いとこ》に水戸学風の学者があって、宗太郎はその従兄を先生にして勉強したから中々エライ、その上に増田《ますだ》の家は年来堅固なる家風で、封建の武家としては一点も愧《はじ》る所はない。宗太郎の実父は私の母の従兄ですから、私もその風采《ふうさい》を知《しっ》て居ますが、ソレハソレハ立派な侍《さむらい》と申して宜《よろ》しい。この父母に養育せられた宗太郎が水戸学国学を勉強したとあれば、所謂《いわゆる》尊攘家に違いはあるまい。ソコで私は今度中津に帰《かえっ》ても宗太郎をば乳臭《にゅうしゅう》の小児と思い、相替らず宗《そう》さん/\で待遇して居た処が、何ぞ料《はか》らん、この宗さんが胸に一物、恐ろしい事をたくらんで居て、そのニコ/\優しい顔をして私方に出入《しゅつにゅう》したのは全く探偵の為《た》めであったと云《い》う。扨《さて》探偵も届いたか、いよ/\今夜は福澤を片付けると云《い》うので、忍び/\に動静《ようす》を窺《うかが》いに来た、田舎の事で外廻りの囲いもなければ戸締りもない、所が丁度《ちょうど》その夜《よ》は私の処に客があって、その客は服部五郎兵衛《はっとりごろべえ》と云う私の先進先生、至極《しごく》磊落《らいらく》な人で、主客《しゅかく》相対《あいたい》して酒を飲みながら談論《はなし》は尽きぬ。その間宗太郎は外に立《たっ》て居たが、十二時になっても寝そうにもしない、一時になっても寝そうにもしない、何時《いつ》までも二人差向いで飲んで話をして居るので、余儀《よぎ》なくお罷《や》めになったと云う。是《こ》れは私が大酒《たいしゅ》夜更《よふか》しの功名ではない僥倖《ぎょうこう》である。
一夜の危険
ソレから家の始末も大抵《たいてい》出来て、いよ/\中津の廻米船に乗《のっ》て神戸まで行き、神戸から東京までの間は外国の郵船に乗る積りで、サア乗船と云《い》う所が、中津《なかつ》の海は浅くて都合が悪い。中津の西一里ばかりの処に鵜《う》ノ島《しま》と云う港があって、其処《そこ》に船が掛《かか》って居ると云うから、私はそのとき大病後ではあるし、老人、子供の連れであるから、前日から鵜ノ島に行《いっ》て一泊して翌朝ゆるりと乗船する趣向にして、その晩鵜ノ島の船宿のような家に泊りましたが、知らぬが仏とは申しながら、後に聞けばこの夜が私の万死一生、恐ろしい時であったと云うは、その船宿の若い主人が例の有志者の仲間であるとは恐ろしい、私の一行は老母と姪とその外《ほか》に近親|今泉《いまいずみ》の後室と小児(小児は秀太郎六歳)役に立ちそうな男は私一人、是《こ》れも病後のヒョロ/\と云うその人数を留めて置いて、宿の奴が中津の同志者に使《つかい》を走らして、「今夜は上都合|云々《うんぬん》と内通したから堪《たま》らない。ソコデ以《もっ》て中津の有志者|即《すなわ》ち暗殺者は、金谷《かなや》と云《い》う処に集会を催《もよお》して、今夜いよ/\鵜《う》ノ島《しま》に押掛けて福澤を殺すことに議決した、その理由は、福澤が近来|奥平《おくだいら》の若殿様を誘引《そそのか》して亜米利加《アメリカ》に遣《や》ろうなんと云う大反《だいそ》れた計画をして居るのは怪《け》しからぬ、不臣な奴だと云う罪状であるから、満座同音、国賊の誅罰に異論はない。
福澤の運命はいよ/\切迫した、老人子供の寝て居る処に血気の壮士が暴れ込んでは迚《とて》も助かる道はない、所が爰《ここ》に不思議とや云《い》わん、天の恵《めぐみ》とや云わん、壮士連の中に争論を生じたと云うのは、如何《いか》にも今夜は好機会で、行《ゆ》きさえすれば必ず上首尾と極《きまっ》て居るから、功名手柄を争うは武士の習いで、仲間中の両三人が、「乃公《おれ》が魁《さきがけ》すると云えば、又一方の者は、「爾《そ》う甘くは行かん、乃公の腕前で遣《やっ》て見せると言出して、負けず劣らず、とう/\仲間喧嘩が始まって、深更に及ぶまで如何《どう》しても決しない、余り喧嘩が騒々しく、大きな声が近処《きんじょ》まで聞えると、その隣家に中西与太夫《なかにしよだいふ》と云う人の住居がある、この人は私などより余程年を取《とっ》て居る、その人が何の事か知らんと行《いっ》て見た所が、斯《こ》う/\云《い》う訳《わ》けだと云う。中西は流石《さすが》に老成の士族だけあって、「人を殺すと云うのは宜《よろし》くない事だ、思止まるが宜《い》いと云うと、壮士等は中々聞入れず、「イヤ思止《おもいと》まらぬと威張《いば》る、ヤレ止まれ、イヤ止まらぬと、今度は老人を相手に大議論を始めて、彼《か》れ此《こ》れと悶着《もんちゃく》して居る間に夜《よ》が明けて仕舞《しま》い、私は何にも知らずにその朝船に乗《のっ》て海上無事神戸に着きました。
老母の大坂見物も叶わず
扨《さて》神戸《こうべ》に着《つい》た処で、母は天保七年、大阪を去《さっ》てから三十何年になる、誠に久し振りの事であるから、今度こそ大阪、京都|方々《ほうぼう》を思うさま見物させて悦《よろこ》ばせようと、中津《なかつ》出帆《しゅっぱん》の時から楽しんで居た処が、神戸に上陸して旅宿《やどや》に着《つい》て見ると、東京の小幡篤次郎《おばたとくじろう》から手紙が来てあるその手紙に、昨今京阪の間|甚《はなは》だ穏かならず、少々|聞込《ききこ》みし事もあれば、神戸に着船したらば成《な》るたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよとある。ヤレ/\又《また》しても面百くない報《しらせ》だ、左《さ》ればとてこんな忌《いや》な事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ口実《こうじつ》を作《つくっ》て、折角楽しみにした上方《かみがた》見物も罷《や》めにして、空しく東京に帰《かえっ》て来ました。
警戒却て無益なり
前の鵜《う》ノ島《しま》の話に引替えて、誠に馬鹿々々《ばかばか》しい事もあります。明治五年かと思う。私が中津《なかつ》の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家|挙《こぞ》って東京に引越《ひきこ》し、私が供をして参ると云《い》うことになった。処《ところ》で藩主が藩地を去るは固《もと》より士族の悦《よろこ》ぶことでない。私も能《よ》くその情実は知《しっ》て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平《おくだいら》家の維持が出来ない、思切《おもいきっ》て断行せよと云《い》うので、疾雷《しつらい》耳を掩《おお》うに暇《いとま》あらず、僅《わず》か六、七日間の支度《したく》で、御隠居様も御姫様も中津《なかつ》の浜から船に乗《のっ》て馬関《ばかん》に行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸《こうべ》と、都《すべ》ての用意|調《ととの》い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎《あいにく》風がない、夜中|水尾木《みずおぎ》の処《ところ》にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、爰《ここ》にグヅ/\して居ると例の若武者が屹《きっ》と遣《やっ》て来るに違いない、来ればその目指す敵《かたき》は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を上《あがっ》て陸行するに若《し》くはなしと決断して、極暑《ごくしょ》の時であったが、払暁《ふつぎょう》マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極《しごく》穏かで何の議論もなかったと云う。此方《こっち》が邪推を運《めぐ》らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番|危《あやう》い、実に困《こまっ》たものです。
疑心暗鬼互に走る
時は違うが維新前、文久三、四年の頃、江戸深川六軒掘に藤沢志摩守《ふじさわしまのかみ》と云う旗本《はたもと》がある。是《こ》れは時の陸軍の将官を勤め、極《ごく》の西洋家で、或日《あるひ》その人の家に集会を催《もよお》し、客は小出播磨守《こいではりまのかみ》、成島柳北《なるしまりゅうほく》を始め、その外《ほか》皆むかしの大家と唱うる蘭学医者、私とも合して七、八名でした。その時の一体の事情を申せば、前に申した通り、私は十二、三年間、夜分外出しないと云う時分で、最も自《みず》から警《いまし》めて、内々《ないない》刀にも心を用い、能《よ》く研《と》がせて斬《き》れるようにして居ます。敢《あえ》て之《これ》を頼みにするではなけれども、集会の話が面白く、ツイ/\怖い事を忘れて思わず夜を更《ふ》かして、十二時にもなった所で、座中みな気が付《つい》て、サア帰りが怖い。疵《きず》持つ身と云《い》う訳《わ》けではないが、いずれも洋学臭い連中だから皆《み》な怖がって、「大分|晩《おそ》うなったが如何《どう》だろうと云うと、主人が気を利《き》かして屋根舟を用意し、七、八人の客を乗せて、六軒堀の川岸《かし》から市中の川、即《すなわ》ち堀割《ほりわり》を通り、行く/\成島《なるしま》は柳橋《やなぎばし》から上《あが》り、それから近いもの/\と段々に上げて、仕舞《しまい》に戸塚《とつか》と云う老医と私と二人になり、新橋の川岸に着《つい》て、戸塚は麻布に帰り私は新銭座《しんせんざ》に帰らねばならぬ。新橋から新銭座まで凡《およ》そ十丁もある。時刻はハヤ一時過ぎ、然《し》かもその夜は寒い晩で、冬の月が誠に能《よ》く照して何となく物凄い。新橋の川岸へ上って大通りを通り、自《おのず》から新銭座の方へ行くのだから、此方側《こっちがわ》即《すなわ》ち大通り東側の方を通《とおっ》て四辺を見れば人は唯《ただ》の一人も居ない。その頃は浪人者が徘徊して、其処《そこ》にも此処《ここ》にも毎夜のように辻斬《つじぎり》とて容易に人を斬ることがあって、物騒とも何とも云《い》うに云われぬ、夫《そ》れから袴《はかま》の股立《ももひき》を取《とっ》て進退に都合の好《い》いように趣向して、颯々《さっさ》と歩いて行《ゆ》くと丁度《ちょうど》源助町《げんすけちょう》の央《なかば》あたりと思う、向《むこう》から一人やって来るその男は大層《たいそう》大きく見えた。実は如何《どう》だか知らぬが、大男に見えた。「ソリや来た、どうもこれは逃げた所がおっ付《つけ》ない。今ならば巡査が居るとか人の家に駈込《かけこ》むとか云うこともあるが、如何《どう》して/\騒々しい時だから不意に人の家に入られるものでない、却《かえっ》て戸を閉《たっ》て仕舞《しまっ》て、出て加勢しようなんと云うものゝないのは分り切《きっ》てる。「コリャ困《こまっ》た、今から引返すと却て引身《ひけみ》になって追駈けられて後から遣《や》られる、寧《いっ》そ大胆に此方から進むに若《し》かず、進むからには臆病な風を見せると付上《つけあが》るから、衝当《つきあた》るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、斯《こ》う斜《ななめ》に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も斜《ななめ》に出て来た。コリャ大変だと思《おもっ》たが、最《も》う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば兼《かね》て少し居合の心得もあるから、如何《どう》して呉《く》れようか、これは一ツ下から刎《は》ねて遣《や》りましょうと云う考《かんがえ》で、一生懸命、イザと云《い》えば真実《ほんとう》に遣《や》る所存《つもり》で行くと、先方もノソ/\遣《や》って来る。私は実に人を斬《きる》と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、愈《いよい》よ先方《むこう》が抜掛《ぬきかか》れば背に腹は換えられぬ、此方《こっち》も抜《ぬい》て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を斬《きっ》たからと云《いっ》て咎《とが》められもせぬ、只《ただ》その場を逃げさえすれば宜《よろ》しいと覚悟して、段々行くと一歩々々《ひとあしひとあし》近くなって、到頭《とうとう》すれ違いになった、所が先方《あっち》の奴も抜かん、此方《こっち》は勿論《もちろん》抜かん、所で擦違《すれちがっ》たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの位《くらい》足が早かったか覚えはない、五、六|間《けん》先へ行《いっ》て振返《ふりかえっ》て見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何《どう》も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、先《ま》ずホッと呼吸《いき》をついて安心して可笑《おか》しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、拵《こしら》えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑《おか》しい芝居はない。初めから此方《こっち》は斬る気はない、唯《ただ》逃げては不味《まず》い、屹《きっ》と殺《や》られると思《おもっ》たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心|怖《こ》わ/\表面|颯々《さっさ》と出て来て、丁度《ちょうど》抜きさえすれば切先《きっさき》の届く位すれ/\になった処《ところ》で、身を飜《ひるがえ》して逃出《にげだ》したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方《こっち》も怖かったが、彼方《あっち》もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処《どこ》に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を互《たがい》に話したら面白い事でしょう。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。