初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
攘夷論
攘夷論の鋒先洋学者に向う
井伊掃部頭《いいかもんのかみ》はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》が浪人に疵《きず》を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込《かけこ》んだとか何とか云《い》う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張《やは》り攘夷の仲間に這入《はいっ》て居るのかと斯《こ》う思たことがある。兎《と》にも角《かく》にも日本国中攘夷の真盛《まっさか》りでどうにも手の着けようがない。所で私の身にして見ると、是《こ》れまでは世間に攘夷論があると云う丈《だ》けの事で、自分の身に就《つい》て危《あやう》いことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などゝ云うことのあろう筈はない。又江戸に出て来たからとて怖い敵もなければ何でもないと計《ばか》り思《おもっ》て居た所が、サア今度|欧羅巴《ヨーロッパ》から帰《かえっ》て来たその上はなか/\爾《そ》うでない。段々|喧《やかま》しくなって、外国貿易をする商人が俄《にわか》に店を片付けて仕舞《しま》うなどゝ云《い》うような事で、浪人と名《なづ》くる者が盛《さかん》に出て来て、何処《どこ》に居て何をして居るのか分らない。丁度今の壮士《そうし》と云うようなもので、ヒョコ/\妙な処から出て来る。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うと云うのであるから、況《ま》して外国の書を読《よん》で欧羅巴《ヨーロッパ》の制度文物を夫《そ》れ是《こ》れと論ずるような者は、どうも彼輩《あいつ》は不埒《ふらち》な奴じゃ、畢竟《ひっきょう》彼奴等《あいつら》は虚言《うそ》を吐《つい》て世の中を瞞着《まんちゃく》する売国奴《ばいこくど》だと云うような評判がソロ/\行《おこなわ》れて来て、ソレから浪士の鋒先《ほこさき》が洋学者の方に向いて来た。是れは誠に恐入《おそれいっ》た話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。是れはマア何処まで小さくなれば免《まぬか》るゝかと云うと、幾ら小さくなっても免れない。到頭《とうとう》仕舞《しまい》には洋書を読むことを罷《や》めて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお詫《わび》が済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。此方《こっち》が無頓着《むとんじゃく》に思う事を遣《や》ろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。既《すで》に私共と同様幕府に雇われて居る飜訳方《ほんやくがた》の中に手塚律蔵《てづかりつぞう》と云う人があって、その男が長州の屋敷に行《いっ》て何か外国の話をしたら、屋敷の若者等が斬《きっ》て仕舞うと云うので、手塚はドン/″\駈出す、若者等は刀を抜《ぬい》て追蒐《おっかけ》る、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃切れずに、寒い時だが日比谷|外《そと》の濠の中へ飛込んで漸《ようや》く助かった事もある。夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵《とうじょうれいぞう》と云う人も矢張《やは》り私と同僚|飜訳方《ほんやくがた》で、小石川の素《も》と蜀山人《しょくさんじん》の住居《すまい》と云《い》う家に住《すん》で居た。所がその家に所謂《いわゆる》浮浪の徒が暴込《あばれこ》んで、東条は裏口から逃出して漸《やっ》と助《たすか》ったと云うような訳《わ》けで、いよ/\洋学者の身が甚《はなは》だ危《あやう》くなって来て油断がならぬ。左《さ》ればとて自分の思う所、為《な》す仕事は罷《や》められるものじゃない。夫《そ》れから私は構わない、構おうと云《いっ》た所が構われもせず、罷《や》めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語《げんぎょ》挙動を柔《やわら》かにして決して人に逆《さから》わないように、社会の利害と云うような事は先《ま》ず気の知れない人には云わないようにして、慎《つつし》める丈《だ》け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専《もっぱ》ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に就《つい》ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年|開版《かいはん》した福澤全集の緒言《ちょげん》に詳《つまびらか》に書《かい》てあるから是《こ》れは見合せるとして、その著訳事業中、即《すなわ》ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖《ふ》えるからその教授法に力を尽《つく》し、又家の活計《くらし》は幕府に雇われて扶持米《ふちまい》を貰《もら》うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓《とん》と頓着《とんじゃく》せず、怖い半分、面白い半分に歳月《としつき》を送《おくっ》て居る。或時《あるとき》可笑《おかし》い事があった。私が新銭座に一寸《ちょいと》住居《すまい》の時(新銭座塾に非《あら》ず)、誰方《どなた》か知らないが御目に掛りたいと云《いっ》てお侍《さむらい》が参りましたと下女が取次《とりつぎ》するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼《かため》で、長い刀を挟《さ》して居ますと云《い》うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰《おっ》しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思《おもっ》て、夫《そ》れから私は窃《そっ》と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山《はらだすいざん》、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵《ののしっ》た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何《な》ぜ名を云て呉《く》れんか、乃公《おれ》は怖くて堪《たま》らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑《たいしょう》した事がある。爾《そ》う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
英艦来る
夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍|家茂《いえもち》公の上洛となり、続いて御親発《ごしんぱつ》として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利《イギリス》の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍《さむらい》が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只《ただ》懇親《こんしん》を以《もっ》て交ろうと思うて是《こ》れまでも有らん限り柔《やわら》かな手段ばかりを執《とっ》て居た、然《しか》るに日本の国民が乱暴をして剰《あまつさ》え人を殺した、如何《いか》にしてもその責《せめ》は日本政府に在《あっ》て免《まぬか》るべからざる罪であるから、この後《のち》二十日《はつか》を期して決答せよと云《い》う次第は、政府から十万|磅《ポンド》の償金を取り、尚《な》お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕《めしとっ》て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文《こうぶん》が来た。その時に私共が飜訳《ほんやく》する役目に当《あたっ》て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住《すん》で居る外国奉行|松平石見守《まつだいらいわみのかみ》の宅に行《いっ》たのが、私と杉田玄端《すぎたげんたん》、高畑五郎《たかばたけごろう》、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是《こ》れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃《ひそか》に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急《ききゅう》存亡の大事を眼前《がんぜん》に見ながら其《そ》れを棄《す》てゝ置《おい》て上洛して仕舞《しま》うた。爾《そ》うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日|待《まっ》て呉《く》れろ、ソレは待つの待たないのと捫着《もんちゃく》の末、どうやら斯《こ》うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云《い》う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔《など》と云う評判、その二十日の期間も既《すで》に過去《すぎさっ》て、又十日と云うことになって、始終《しじゅう》十日と二十日の期限を以《もっ》て次第々々に返辞《へんじ》を延《のば》して行く。私はその時に新銭座に住《すん》で居たから、迚《とて》もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外《ほか》に仕様《しよう》がないと、ソロ/\迯《にげ》仕度をすると云うような事で、ソコで愈《いよい》よ期日も差迫《さしせまっ》て、今度はもう掛値《かけね》なし、一日も負《ま》からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局《ほんやくきょく》に居て詳《つまびらか》に知《しっ》て居るから尚《な》お堪《たま》らない。
仏国公使無法に威張る
その飜訳をする間《あいだ》に、時の仏蘭西《フランス》のミニストル・ベレクルと云う者が、どう云う気前だか知らないが大層な手紙を政府に出して、今度の事に就《つい》て仏蘭西は全く英吉利《イギリス》と同説だ、愈よ戦端《せんたん》を開く時には英国と共々に軍艦を以て品川沖を暴《あ》れ廻《まわ》ると、乱暴な事を云うて来た。誠に謂《いわ》れのない話で、丸でその趣《おもむき》は今の西洋諸国の政府が支那人を威《おど》すと同じ事で、政府は唯《ただ》英仏人の剣幕を見て心配する計《ばか》り。私には能《よ》くその事情が分《わか》る、分れば分るほど気味が悪い。
事態いよ/\迫る
是《こ》れはいよ/\遣《や》るに違いないと鑑定《かんてい》して、内の方の政府を見れば何時迄《いつまで》も説が決しない。事が喧《やかま》しくなれば閣老は皆病気と称して出仕する者がないから、政府の中心は何処《どこ》に在《あ》るか訳《わけ》が分らず、唯《ただ》役人達が思い/\に小田原評議のグヅ/\で、愈《いよい》よ期日が明後日と云《い》うような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私の処に疵《きず》の付《つい》た箪笥《たんす》がある。愈よ荷物を片付けようと云うので箪笥を細引《ほそびき》で縛《しばっ》て、青山の方へ持《もっ》て行けば大丈夫だろう、何も只《ただ》の人間を害する気遣《きづかい》はないからと云うので、青山の穏田《おんでん》と云う処に呉黄石《くれこうせき》と云う芸州《げいしゅう》の医者があって、その人は箕作の親類で、私は兼て知て居るから、呉の処に行てどうか暫《しばら》く此処《ここ》に立退場《たちのきば》を頼むと相談も調《ととの》い、愈よ青山の方と思うて荷物は一切|拵《こしら》えて名札を付けて担出《かつぎだ》す計《ばか》りにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行《いっ》て見れば、大砲の口を海の方に向けて撃《う》つような構えにしてある。是《こ》れは今明日《こんみょうにち》の中にいよ/\事は始まると覚悟を定めた。その前に幕府から布令《ふれ》が出てある。愈《いよい》よ兵端《へいたん》を開く時には浜御殿《はまごてん》、今の延遼館《えんりょうかん》で、火矢《ひや》を挙《あ》げるから、ソレを相図《あいず》に用意致せと云《い》う市中に布令が出た。江戸ッ子は口の悪いもので、「瓢箪《ひょうたん》[#割り注]兵端[#割り注終わり]の開け初めは冷[#割り注]火矢[#割り注終わり]でやる」と川柳があったが、是れでも時の事情は分る。
米と味噌と大失策
夫《そ》れから又|可笑《おか》しい事がある。私の考えに、是れは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうと思《おもっ》て、出入《でいり》の米屋に申付《もうしつ》けて米を三十俵|買《かっ》て米屋に預け、仙台味噌を一樽買て納屋《ものおき》に入れて置《おい》た。所が期日が切迫するに従て、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何《どう》すると云うた所が、担《かつ》いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負《せおっ》て駈けることも出来なかろう。是れは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜《い》いと云《いっ》たが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、是れはマア逃げる時はこの米と味噌樽は棄《す》てゝ行くより外《ほか》はないと云て、その騒動の真盛《まっさか》りに大笑いを催《もよお》した事がある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はその時|二分金《にぶきん》で百両か百五十両|持《もっ》て居たから、この金を独《ひと》りで持て居ても策でない、イザと云《い》えば誰が何処《どこ》にどう行くか分らない、金があれば先《ま》ず餒《かつ》えることはないから、この金は私が一人で持て居るよりか、家内が一人で持《もっ》て居るよりか、是《こ》れは銘々《めいめい》に分けて持つが宜《よ》かろうと云うので、その金を四つか五つに分けて、頭割《あたまわり》にして銘々ソレを腰に巻《まい》て行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日は愈《いよい》よ戦争の始まり、外《ほか》に道はないと覚悟した所が、茲《ここ》に幸な事があると云うのは、その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守《おがさわらいきのかみ》と云う閣老がある。夫《そ》れから横浜に浅野備前守《あさのびぜんのかみ》と云う奉行がある。
小笠原壱岐守
ソレ等の人が極秘密に云合《いいあわ》せた事と見えて、五月の初旬、十日前後と思いますが、愈よ今日と云う日に、前日まで大病だと云《いっ》て寝て居た小笠原壹岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗《のっ》て品川沖を出て行く。スルト英吉利《イギリス》の砲艦《ガンボート》が壹岐守の船の尻に尾《つ》いて走ると云うのは、壹岐守は上方《かみがた》に行くと云て品川湾を出発したから、若《も》し本当にその方針を取《とっ》て本牧《ほんもく》の鼻を廻《まわ》れば英人は後から砲撃する筈《はず》であったと云う。所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ這入《はいっ》て、自分の独断で即刻《そっこく》に償金を払《はら》うて仕舞《しまっ》た。十万|磅《ポンド》を時の相場にすればメキシコ弗《ドル》で四十万になるその正銀《しょうぎん》を、英公使セント・ジョン・ニールに渡して先《ま》ず一段落を終りました。
鹿児島湾の戦争
幕府に要求した十万|磅《ポンド》の償金は五月十日に片付《かたづけ》て、夫《そ》れから今度はその英軍艦が鹿児島に行《いっ》て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、且《か》つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと云《い》う掛合の為《た》めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に廻《まわっ》て錨《いかり》を卸《おろ》した。スルト薩摩藩から直《ただ》ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦《きかん》の水師提督はクーパー、司令長官はウ※[#小書き片仮名ヰ、180-7]ルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰《しょかん》を薩摩の役人に渡し、応否の返答|如何《いかん》と待《まっ》て居る。所がなか/\容易な事に返辞《へんじ》が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即《すなわ》ち西洋から薩摩藩に買取《かいとっ》た船が二艘あるその二艘の船を談判《だんぱん》の抵当に取ると云う趣意《しゅい》で、桜島の側に碇泊《ていはく》してあった二[#「二」に「〔三〕」の注記]艘の船を英の軍艦が引張《ひっぱっ》て来ると云う手詰《てづめ》の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦《おおかっせん》になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ思《おもっ》て錨を挙《あ》げずに居た所が、俄《にわか》に陸の方で撃始《うちはじ》めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎《あいにく》その時は大変な暴風、加《くわ》うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑《いとま》がないと云うので、錨の鎖《くさり》を切《きっ》て夫れから運動するようになった。是《こ》れが例の英吉利《イギリス》の軍艦の錨《いかり》が薩摩の手に入《はいっ》た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専《もっぱ》ら旗艦を狙《ねら》うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨《うま》く発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹《カピテン》と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に向《むかっ》ての砲撃もなか/\劇《はげ》しく、海岸の建物は大抵|焼払《やきはら》うて是れも容易ならぬ損害であったが、詰《つま》る所、勝負なしの戦争と云《い》うのは、薩摩の方は英吉利《イギリス》の軍艦を撃《うっ》て二人の将官まで殺したけれどもその船を如何《どう》することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰《かえっ》たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片《かけ》を見て、船中の英人等が頻《しき》りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る訳《わけ》はない。イヤ能《よ》く見れば露西亜《ロシア》製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議|区々《まちまち》なりしと云《い》う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来《がんらい》英吉利《イギリス》と露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互《あいたがい》に色々な猜疑心《さいぎしん》がある。今日に至るまでも仲は好《よ》くないように見える。
松木、五代、英艦に投ず
それは扨《さて》置き茲《ここ》に薩摩の船を二艘|此方《こちら》に引張《ひっぱっ》て来ると云う時に、その船長の松木弘安《まつきこうあん》(後に寺嶋陶蔵《てらじまとうぞう》又後に宗則《むねのり》)、五代才助《ごだいさいすけ》(後に五代|友厚《ともあつ》)の両人が、船奉行と云う名義で云《い》わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込《のりこみ》の水夫などは其処《そこ》から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談《だん》じて窃《ひそか》にその船の火薬車に導火《みちび》を点《つ》けて置《おい》たから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞《しまっ》た。夫《そ》れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜《ほりょ》でもなければ御客《おきゃく》でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに違《ちがい》はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ切《ぎ》り少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴《ヨーロッパ》に一緒に行《いっ》たのみならず、以前から私と箕作《みつくり》と松木と云うものは甚《はなは》だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗《のっ》たと云うが如何《どう》したろうかと只《ただ》その噂《うわさ》をするばかりで尋ねる所もない。英人が若《も》しこの両人を薩摩の方へ還《かえ》せば、ソリャもう若武者共が直《す》ぐに殺すに極《きまっ》て居る。然《さ》ればと云《いい》て之《これ》を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑《けんぎ》の筋があるとか取調べる廉《かど》があるとか云《いっ》て取敢《とりあ》えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に還《かえ》したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何《どう》したろうか、如何《いか》にも不審な事じゃと唯《ただ》箕作と私と始終《しじゅう》その話をして居た。所が凡《およ》そこの事が済んで一年ばかり経《たっ》てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。
薩人、英人と談判
松木の話は次にして置《おい》て、横浜に英吉利《イギリス》の軍艦が帰《かえっ》て来た跡で、薩摩から談判の為《た》めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門《いわしたさじうえもん》、重野孝之丞《しげのこうのじょう》(後に安繹《あんえき》)、その外《ほか》に黒幕見たような役目を帯《お》びて来たのが大久保市蔵《おおくぼいちぞう》(後に利通《としみち》)、その三人が出て来た処《ところ》で、第一番に薩摩の望む所は兎《と》にも角《かく》にもこの戦争を暫《しばら》く延引《えんいん》して貰《もら》いたいと云う注文なれども、その周旋を誰《たれ》に頼むと云《い》う手掛りもなく当惑の折柄《おりから》、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎《しみずうさぶろう》(瑞穂屋《みずほや》卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付《つい》ては至極《しごく》熱心、先《ま》ず当時に於《おい》てはその身分に不似合《ふにあい》な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若《も》し薩摩の方から日本文の書翰《しょかん》を出されたときには之《これ》を読むに困る。通弁《つうべん》にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支《さしつかえ》ないけれども、日本文の書翰を颯々《さっさつ》と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生《へいぜい》勇気もあり随分《ずいぶん》そんな事の好きな人で、夫《そ》れは面白い行《いっ》て見ようと容易《たやすく》承諾し、横浜税関の免状を申受《もうしう》けて旗艦《きかん》に乗込み、先方に着《ちゃく》して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵《おおくぼいちぞう》は取敢《とりあ》えず清本卯三郎を頼み、兎《と》に角《かく》にこの戦争を暫《しばら》く延引《えんいん》して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次《とりつぎ》の者の言うに、斯《かか》る重大事件を談《だん》ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜《よ》かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小|軽重《けいじゅう》はない、談判の委任を受けて居れば沢山《たくさん》だ、夫れでも拙者《せっしゃ》と話は出来ないかと少しく理屈を云《いっ》た所が、そう云う訳《わ》けなら直ぐに遇《あ》うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛《はなしか》けると、なか/\聞きそうにも為《し》ない。イヤもう既《すで》に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯《ただ》今支度最中、然《しか》るにこの戦争の時期を延《のば》して待つなどゝは謂《いわ》れのない話だ云々《うんぬん》と、思うさま威嚇《おど》して聞きそうな顔色《がんしょく》がない。ソコで清水はその挨拶を承《うけたまわ》って薩人に報告すると、重野が、迚《とて》もこりゃ六《むず》かしそうだ、兎《と》に角《かく》に自分達が自《みず》から談判して見ようと云《いっ》て、遂《つい》に薩英談判会を開き、種々《しゅじゅ》様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高《たか》は二万五千|磅《ポンド》、時の相場にして凡《およ》そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守《しまずさつまのかみ》の名義では払われないと云《い》うので、分家の島津|淡路守《あわじのかみ》の名を以《もっ》て金を渡すことにして、且《か》つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処《どこ》にか逃げて分らないから、若《も》し分《わかっ》たらば死刑と云うことで以《もっ》て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵《おおくぼいちぞう》は出ない。岩下《いわした》と重野《しげの》の両人、それから幕府の外国方《がいこくがた》から鵜飼弥市《うかいやいち》、監察方《かんさつがた》から斎藤金吾《さいとうきんご》と云《い》う人が立会い、いよ/\書面を取換《とりかわ》して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日《ついたち》か二日頃であった。
松木、五代、埼玉郡に潜む
扨《さて》夫《そ》れから私の気になる松木《まつき》、即《すなわ》ち寺島《てらしま》の話は斯《こ》う云《い》う次第である。松木、五代《ごだい》が薩摩の船から英の軍艦に乗移《のりうつっ》た所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木に聞《きい》て居たこともある至極《しごく》懇意《こんい》な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何《どう》して此処《ここ》に居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うような訳《わ》けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、この儘《まま》に何時迄《いつまで》もこの船の中に居られるものでない。マア如何《どう》かして上陸したい、と云うその事に付《つい》ては清水卯三郎が一切《いっさい》引受ける。それは松木と五代は極々|日蔭者《ひかげもの》で、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水が先《ま》ず横浜に上《あがっ》て、夫れから亜米利加《アメリカ》人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、如何《どう》でも周旋しよう、兎《と》に角《かく》に艀船《はしけぶね》に乗《のっ》て神奈川の方に上る趣向に為《し》よう、その船も何も世話をして遣《や》ろうと云うことになった。所でアドミラルが如何《どう》云うかソレに聞《きい》て見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸|差支《さしつかえ》なしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと諜《しめ》し合せて、落人《おちうど》両人の者は夜分|窃《ひそか》にその艀船《はしけ》に乗り移り、神奈川以東の海岸から上《のぼ》る積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目|毎《ごと》に今の巡査《じゅんさ》交番所見たようなものがずっと建《たっ》て居て、一人でも径しいものは通行を咎《とが》めると云《い》うことになって居るから、なか/\大小などを挟《さ》して行かれるものでない。ソコで大小も陣笠《じんがさ》も一切《いっさい》の物はヴエンリートの家に預《あず》けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東に下《くだっ》てとう/\羽根田《はねだ》の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入《はい》るとした所で、マダ幕府の探偵が甚《はなは》だ恐ろしい。只《ただ》の宿屋には泊られないから、江戸に這入《はいっ》たらば堀留《ほりどめ》の鈴木《すずき》と云う船宿に清水が先へ行《いっ》て待《まっ》て居るから其処《そこ》へ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は夜中《やちゅう》勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方に向《むかっ》て足を進める中に夜が明けて仕舞《しま》い、コリャ大変と夫《そ》れから駕籠に乗《のっ》て面《かお》を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待て居るので万事の都合|宜《よろし》く、その船宿に二晩|窃《ひそか》に泊《とまっ》て、夫《そ》れから清水の故郷|武州《ぶしゅう》埼玉|郡《ごおり》羽生村《はにゅうむら》まで二人を連れて来て、其処《そこ》も何だか気味が悪いと云《い》うので、又その清水《しみず》の親類で奈良村に吉田一右衛門《よしだいちえもん》と云《い》う人がある、その別荘に移して、此処《ここ》は極《ごく》淋しい処《ところ》で見付かるような気遣《きづか》いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞《しま》い、五代《ごだい》はその後五、六ヶ月して窃《ひそか》に長崎の方に行き、松木《まつき》は凡《およ》そ一年ばかりも其処《そこ》に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭《しんとう》に掛けてその所在を探索し、大久保《おおくぼ》、岩下《いわした》、重野《しげの》を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門《ひごしちざえもん》、南部弥八《なんぶやはち》など云う人が様々周旋の末、これは清水|卯三郎《うさぶろう》が知《しっ》て居《い》はしないかと思い付《つい》て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云《い》われない、不意《ふい》と捕まえられて首を斬《き》られるのではなかろうかと思《おもっ》て真実が吐《は》かれない。一応は唯《ただ》知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々|疑《うたがっ》て居る様子。爾《そ》うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何《どう》しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣《や》りたいが、殺すような事なら今まで助けて置《おい》たものだから出したくないと、自分の思案に余《あまっ》て、夫《そ》れから江戸の洋学の大家|川本幸民《かわもとこうみん》先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行《いっ》た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜《よ》かろう、薩藩人が爾う云うなら有《あり》のまゝに明《あか》して渡して遣《や》るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯《か》も自分が世話をした事で一切《いっさい》知て居る、早速御引渡し申すが、只《ただ》約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木《まつき》が始めて薩人に面会して、この時から松木|弘安《こうあん》を改めて寺島陶蔵《てらしまとうぞう》と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚《はなは》だ秘密にして、事実を知《しっ》て居る者は藩中に唯《ただ》七人しかないと清水が聞《きい》たそうだが、その七人とは多分|大久保《おおくぼ》、岩下《いわした》なぞでしょう。
始めて松木に逢う
その時は既《すで》に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日|肥後七左衛門《ひごしちざえもん》が不意《ふい》と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支《さしつかえ》はないかと云《い》う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作《みつくり》と遇《あ》いさえすればその噂《うわさ》をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処《どこ》に居るか。「江戸に居る、兎《と》に角《かく》に此処《ここ》に来て宜いか。「宜いとも、大宜《おおよ》しだ。何も憚《はばか》ることはない、少しも構わない、直《す》ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土《めいど》の人に遭《あっ》たような気がして、ソレカラいろ/\な話を聞《きい》て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も箇《か》も分《わかっ》て仕舞《しまっ》た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振《ひさしぶ》りで飲食を共にして、何処《どこ》に居るかと聞けば、白銀台町《しろかねだいまち》に曹《そう》某《なにがし》と云《い》う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜《ひそ》んで居ると云う。その日は先《ま》ずその儘《まま》分れて、夫《そ》れから私は直《す》ぐに箕作《みつくり》の処に事の次第を云《いっ》て遣《やっ》て、箕作も直《す》ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島《かごしま》戦争の話などもあって、その戦争の事に就《つい》てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処《ここ》で之《これ》を略し、扨《さて》寺島《てらしま》の身の上は如何《どう》だと云うに、薩摩の方は大抵|是《こ》れで宜《よろ》しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから爾《そ》う恐れる事もない訳《わ》け。ソコで寺島は何をして喰《くっ》て居るかと聞けば、今は本藩の飜訳《ほんやく》などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公《おれ》は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火《みちび》を点《つ》けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持《もっ》て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊《ていはく》中|菓物《くだもの》が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に乗《じょう》じて斬込《きりこ》もうとして出来なかったと云うような種々《しゅじゅ》様々な話がありますが、それはマア止めにして錨《いかり》の話。
夢中で錨を還す
その錨《いかり》を切《きっ》たと云うことは清水卯三郎《しみずうさぶろう》が船に乗《のっ》て見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に遇《あっ》て、那《あ》の時に英艦の方では錨を切《きっ》たのだから拾い挙《あ》げて置《おい》たら宜《よ》かろうと云《いっ》た所が、薩摩でも余り気に留《と》めなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に這入《はいっ》たが、二万五千|磅《ポンド》の金を渡して和睦《わぼく》をしたその時に、英人が手軽に錨を還《かえ》して貰いたいと云うと、易《やす》い事だと云《いっ》て何とも思わずに古鉄《ふるがね》でも渡す積りで返して仕舞《しまっ》た様子だが、前にも云う通り戦争の負勝《まけかち》は分らなかったのでしょう、何方《どっち》が勝《かっ》たでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア負師《まけいくさ》、夫《そ》れから又薩摩の方も陸を荒されて居ながら帰《かえっ》て行く船を追蒐《おっか》けて行くこともせず打遣《うちや》って置《おい》たのみならず、戦争の翌朝英艦から陸に向《むかっ》て発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば何方《どちら》も勝た、負けたと云えば何方《どちら》も負けた、詰《つま》り勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して仕舞《しまっ》たと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、加之《しかのみ》ならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害の為《た》めに大層な事を日本政府に云掛《いいか》けて、到頭《とうとう》十二万五千|磅《ポンド》取《とっ》たと云《い》うのは理か非か、甚《はなは》だ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、吾々《われわれ》日本人は今日に至るまでも不平である。夫《そ》れから薩摩から戦の日延べを云出《いいだ》したその時に、英公使の云振《いいぶ》りが威嚇《おど》したにも威嚇《おど》さぬにもマア大変な剣幕で、悪く云《い》えば日本人はその威嚇《おどし》を喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事が終《おわっ》て仕舞《しまっ》た。今ならばこんな馬鹿げた事は勿論《もちろん》なかろうが、既《すで》にその時にも亜米利加《アメリカ》人などは日本政府で払わなければ宜《い》いがと云《いっ》て居たことがある。英公使は威嚇《おど》し抜《ぬい》て、その上に仏蘭西《フランス》のミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰で訳《わ》けが分らない。ソレで事が済んだのは今更《いまさ》ら何とも評論のしようがない。
緒方先生の急病村田蔵六の変態
所で京都の方では愈《いよい》よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭《オランダ》の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛《うちか》けた。けれども幸に和蘭《オランダ》船は沈みもせずに通《とおっ》たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々《ますます》恐ろしい事になって来た。所でその歳《とし》の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷《したや》に居た緒方先生が、急病で大層|吐血《とけつ》したと云う急使《きゅうつかい》に、私は実に胆《きも》を潰《つぶ》した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知《しっ》て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢《とりあ》えず即刻《そっこく》宅《うち》を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷《したや》まで駈詰《かけづめ》で緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切《ことき》れて仕舞《しまっ》た跡。是《こ》れはマア如何《どう》したら宜《よ》かろうかと丸で夢を見たような訳《わ》け。道の近い門人共は疾《と》く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、外《ほか》に用事もなし、今夜は先《ま》ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢|坐《すわ》る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台《しきだい》の処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六《むらたぞうろく》(後に大村益次郎《おおむらますじろう》)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時《いつ》長州から帰《かえっ》て来たか。「この間|帰《かえっ》た。「ドウダエ馬関《ばかん》では大変な事を遣《やっ》たじゃないか。何をするのか気狂《きぐるい》共が、呆返《あきれかえっ》た話じゃないかと云うと、村田が眼に角《かど》を立て、「何だと、遣たら如何《どう》だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、怪《け》しからん事を云うな。長州ではチャント国是《こくぜ》が極まってある。あんな奴原《やつばら》に我儘《わがまま》をされて堪《たま》るものか。殊《こと》に和蘭《オランダ》の奴が何だ、小さい癖に横風な面《つら》して居る。之《これ》を打攘《うちはら》うのは当然《あたりまえ》だ。モウ防長の士民は悉《ことごと》く死尽《しにつく》しても許しはせぬ、何処《どこ》までも遣《や》るのだと云うその剣幕は以前の村田ではない。実に思掛けもない事で、是れは変なことだ、妙なことだと思うたから、私は宜加減《いいかげん》に話を結んで、夫《そ》れから箕作の処に来て、大変だ/\、村田の剣幕は是《こ》れ/\の話だ、実に驚いた、と云《い》うのはその前から村田が長州に行《いっ》たと云うことを聞《きい》て、朋友は皆心配して、あの攘夷の真盛《まっさか》りに村田がその中に呼込《よびこ》まれては身が危《あやう》い、どうか径我のないようにしたいものだと、寄ると触ると噂《うわさ》をして居る其処《そこ》に、本人の村田の話を聞て見れば今の次第、実に訳《わ》けが分らぬ。一体村田は長州に行て如何《いか》にも怖いと云うことを知て、そうして攘夷の仮面《めん》を冠《かぶっ》て態《わざ》とりきんで居るのだろうか、本心からあんな馬鹿を云《い》う気遣《きづかい》はあるまい、どうも彼《あれ》の気が知れない。「そうだ、実に分らない事だ。兎《と》にも角《かく》にも一切|彼《あ》の男の相手になるな。下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、暫《しばら》く別ものにして置くが宜《い》いと、箕作《みつくり》と私と二人|云合《いいあわ》して、夫《そ》れから外《ほか》の朋友にも、村田は変だ、滅多な事を云うな、何をするか知れないからと気を付けた。是《こ》れがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。当時村田は自身|防禦《ぼうぎょ》の為《た》めに攘夷の仮面《めん》を冠て居たのか、又は長州に行て、どうせ毒を舐《な》めれば皿までと云うような訳けで、本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、何しろ私を始め箕作秋坪その外《ほか》の者は、一時《いちじ》彼に驚かされてその儘《まま》ソーッと棄置《すておい》たことがあります。
外交機密を写取る
文久三年|癸亥《みずのとい》の歳《とし》は一番|喧《やかま》しい歳で、日本では攘夷をすると云《い》い、又英の軍艦は生麦一件に就《つい》て大造《たいそう》な償金を申出《もうしだ》して幕府に迫ると云《い》う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局《ほんやくきょく》に居たから、その外国との往復|書翰《しょかん》は皆見て悉《ことごと》く知《しっ》て居る。即《すなわ》ち英仏その他の国々から斯《こ》う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞《へんじ》を遣《やっ》た。又|此方《こっち》から斯う云う事を諸外国の公使に掛合《かけあい》付けると、彼方《あっち》から斯う返答して来たと云う次第、即《すなわ》ち外交秘密が明《あきらか》に分《わかっ》て居なければならぬ筈《はず》。勿論《もちろん》その外交秘密の書翰を宅に持《もっ》て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或《あるい》は又外国奉行の宅に行《いっ》て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記《あんき》して置《おい》て、宅に帰《かえっ》てからその大意を書《かい》て置く。例えば生麦の一件に就《つい》て英の公使から来たその書翰の大意は斯様《かよう》々々、ソレに向《むかっ》て此方《こっち》から斯う返辞を遣《つか》わしたと云うその大意、一切《いっさい》外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉《うすよう》の罫紙《けいし》に書記《かきしる》して置《おい》た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯《ただ》親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分《ずいぶん》面白いものである。所が私はその書付《かきつけ》を一日《あるひ》不意と焼《やい》て仕舞《しまっ》た。
脇屋卯三郎の切腹
焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起《おこっ》た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎《わきやうさぶろう》と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に在《あっ》て、之《これ》に手紙を遣《やっ》た所が、その手紙を不意《ふい》と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に遣《や》る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏《おだや》かならぬ御時節柄《ごじせつがら》で心配の事だ、どうか明君《めいくん》賢相《けんしょう》が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々《うんぬん》と書《かい》てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷《そうぞうし》い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云《い》えば、是《こ》れは公方様《くぼうさま》を蔑《ないがし》ろにしたものだ、即《すなわ》ち公方様を無きものにして明君を欲すると云《い》う所謂《いわゆる》謀反人《むほんにん》だと云う説になって、直《す》ぐに脇屋《わきや》を幕府の城中で捕縛して仕舞《しまっ》た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛《ほばく》されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が付《つい》て脇屋が廊下を通《とおっ》て行《いっ》た。何《いず》れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云《いい》て、その翌日になって聞《きい》た所が、今の手紙の一件で斯《こ》う/\云う嫌疑《けんぎ》だそうだと云う。夫《そ》れから脇屋を捕まえると同時に家捜《やさが》しをして、そうしてその儘《まま》当人は伝馬町に入牢《にゅうろう》を申付《もうしつ》けられ、何かタワイもない吟味《ぎんみ》の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に行《いっ》た高松彦三郎《たかまつひこさぶろう》と云う人は御小人目付《おこびとめつけ》で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。ソコで私も脇屋|卯三郎《うさぶろう》がいよ/\殺されたと云うことを聞て酷《ひど》く恐れた、その恐れたと云うのは外《ほか》ではない、明君|云々《うんぬん》と云《いっ》た丈《だ》けの話で彼《かれ》が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、爾《そ》うすると私の書記《かきしる》して置《おい》たものは外交の機密に係《かか》る恐ろしいものである、若《も》しこれが分りでもすれば直《す》ぐに牢《ろう》に打込《ぶちこ》まれて首を斬《き》られて仕舞《しま》うに違《ちが》いないと斯《こ》う思《おもっ》たから、その時は私は鉄砲洲に居たが、早々《そうそう》その書付《かきつけ》を焼《やい》て仕舞《しまっ》たけれども、何分気になって堪《たま》らぬと云《い》うのは、私がその書付の写しか何かを親類の者に遣《やっ》たことがある、夫《そ》れから又|肥後《ひご》の細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何《どう》も気になって堪《たま》らない、と云《いっ》て今頃からソレを荒立てゝ聞きに遣《や》れば又その手紙が邪魔になる、既《すで》に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て呉《く》れなければ宜《よ》いが、出て来られた日には大変な事になると思《おもっ》て誠に気懸《きがか》りであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに安堵《あんど》して、今では颯々《さっさつ》とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決して爾《そ》うでない、自分から作《つくっ》た災《わざわい》で、文久三年|亥歳《いどし》から明治元年まで五、六年の間《あいだ》と云うものは、時の政府に対して恰《あたか》も首の負債を背負《しょい》ながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を窘《くるし》めて居たのは随分《ずいぶん》悪い心持でした。脇屋《わきや》の罪に較《くら》べて五十歩百歩でない、外交機密を漏《もら》した奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方は旨《うま》く免《まぬ》かれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、無惨《むざん》ではないか。人間の幸不幸は何処《どこ》に在《あ》るか分らない、所謂《いわゆる》因縁《いんねん》でしょう。この一事でも王政維新は私の身の為《た》めに難有《ありがた》い。夫《そ》れは扨《さて》置き、今日でも彼《あ》の書《かい》たものを見れば、文久三年の事情はよく分《わかっ》て、外交歴史の材料にもなり、頗《すこぶ》る面白いものであるが、何分にも首には易《か》えられず焼《やい》て仕舞《しまっ》たが、若《も》しも今の世の中に誰か持《もっ》て居る人があるなら見たいものと思います。
下ノ関の攘夷
夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では只《ただ》和蘭《オランダ》船を撃つばかりでなく、その後《のち》亜米利加《アメリカ》の軍艦にも発砲すれば、英吉利《イギリス》の軍艦にも発砲すると云《い》うような訳《わ》けで、到頭《とうとう》その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込《ねじこ》んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着《もんちゃく》の末、遂《つい》にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭|仕舞《しまい》には鎖国攘夷と云うことを云わずに新《あらた》に鎖港と云《い》う名を案じ出して、ソレで幕府から態々《わざわざ》池田播磨守《いけだはりまのかみ》と云う外国奉行を使節として仏蘭西《フランス》まで鎖港の談判に遣《つか》わすと云うような騒ぎで、一切《いっさい》滅茶苦茶《めちゃくちゃ》、暗殺は殆《ほと》んど毎日の如《ごと》く、実に恐ろしい世の中になって仕舞《しまっ》た。爾《そ》う云う時勢であるから、私は唯《ただ》一身を慎《つつし》んでドウでもして災《わざわい》を※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れさえすれば宜《よ》いと云うことに心掛けて居ました。
剣術の全盛
兎《と》に角《かく》に癸亥《みづのとい》の前後と云うものは、世の中は唯無闇に武張《ぶば》るばかり。その武張ると云うのも自《おのず》から由来がある。徳川政府は行政外交の局に当《あたっ》て居るから拠《よんどこ》ろなく開港説――開国論を云わなければならぬ、又行わなければならぬ、けれどもその幕臣全体の有様はドウだと云《い》うと、ソリャ鎖国家の巣窟《そうくつ》と云《いっ》ても宜《よ》い有様《ありさま》で、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭を擡《もた》げる時代でない。当時少しく世間に向くような人間は悉《ことごと》く長大小《ながだいしょう》を横《よこた》える。夫《そ》れから江戸市中の剣術家は幕府に召出《めしだ》されて巾《はば》を利《き》かせて、剣術|大《おお》流行の世の中になると、その風は八方に伝染して坊主までも体度《たいど》を改めて来た。元来《がんらい》その坊主と云うものは城内に出仕して大名|旗本《はたもと》の給仕役を勤める所謂《いわゆる》茶道坊主であるから、平生《へいぜい》は短い脇差《わきざし》を挟《さ》して大名に貰《もらっ》た縮緬《ちりめん》の羽織を着てチョコ/\歩くと云うのが是《こ》れが坊主の本分であるのに、世間が武張《ぶば》るとこの茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟して坊主頭を振り立てゝ居る奴がある。又当時流行の羽織はどうだと云うと、御家人《ごけにん》旗本の間《あいだ》には黄平《きびら》の羽織に漆紋《うるしもん》、それは昔し/\家康公が関ヶ原合戦の時に着て夫れから水戸の老公が始終《しじゅう》ソレを召《め》して居たとかと云うような云伝《いいつた》えで、ソレが武家社会一面の大《おお》流行。ソレカラ江戸市中|七夕《たなばた》の飾りには、笹に短冊を付けて西瓜《すいか》の切《きれ》とか瓜《うり》の張子《はりこ》とか団扇《うちわ》とか云うものを吊すのが江戸の風である。所が武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の太刀《たち》とか兜《かぶと》とか云《い》うようなものを吊すようになって、全体の人気《にんき》がすっかり昔の武士風になって仕舞《しまっ》た。迚《とて》も是《こ》れでは寄付《よりつ》きようがない。
刀剣を売払う
ソコで私は只《ただ》独りの身を慎《つつし》むと同時に、是れはドウしたって刀は要《い》らない、馬鹿々々《ばかばか》しい、刀は売《うっ》て仕舞《しま》えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前《しんめいまえ》の田中重兵衛《たなかじゅうべえ》と云う刀屋を呼《よん》で、悉《ことごと》く売払《うりはらっ》て仕舞《しまっ》た。けれどもその時分はマダ双刀《だいしょう》を挟《さ》さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀《ちいさがたな》、即《すなわ》ち※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》を着るとき挟す脇差の鞘《さや》を少し長くして刀に仕立て、夫《そ》れから神明前の金物屋で小刀《こがたな》を買《かっ》て短刀作りに拵《こしら》えて、唯《ただ》印《しる》し丈《だ》けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両|請取《うけとっ》たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切《ぎり》で外《ほか》には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯《たわむれ》に居合を抜《ぬい》て、随分《ずいぶん》好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合|刀《がたな》はすっかり奥に仕舞《しま》い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風《ふう》をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡《およ》そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間《あいだ》と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云《い》うと、唯《ただ》著書|飜訳《ほんやく》にのみ屈託《くったく》して歳月を送《おくっ》て居ました。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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