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ダイガクコトハジメ - 青空文庫『学校』 - 『福翁自伝 - 幼少の時』福沢諭吉

参考文献・書籍

初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号

関連:慶應義塾適塾福沢諭吉緒方洪庵長与専斎箕作秋坪

 慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々|自《みず》から伝記を記すの例あるを以《もっ》て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之《これ》を勧めたるものありしかども、先生の平生|甚《はなは》だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘《まま》に経過したりしに、一昨年の秋、或《あ》る外国人の需《もとめ》に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風《ふ》と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自《みず》から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、恰《あたか》も一場の談話にして、固《もと》より事の詳細を悉《つ》くしたるに非《あら》ず。左《さ》れば先生の考《かんがえ》にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、更《さ》らに自《みず》から筆を執《とり》てその遺漏《いろう》を補い、又後人の参考の為《た》めにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実に拠《よ》り、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編と為《な》し、自伝の後に付するの計画にして、既《すで》にその腹案も成りたりしに、昨年九月中、遽《にわか》に大患に罹《かか》りてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ/\全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世に公《おおやけ》にし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。

 

明治三十二年六月
時事新報社 石河幹明《いしかわみきあき》 記
 

幼少の時

 福澤諭吉の父は豊前《ぶぜん》中津|奥平《おくだいら》藩の士族福澤|百助《ひゃくすけ》、母は同藩士族、橋本浜右衛門《はしもとはまえもん》の長女、名を於順《おじゅん》と申し、父の身分はヤット藩主に定式《じょうしき》の謁見が出来ると云《い》うのですから足軽《あしがる》よりは数等|宜《よろ》しいけれども士族中の下級、今日で云えば先《ま》ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役《もとじめやく》を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷《くらやしき》に長く勤番して居ました。夫《そ》れゆえ家内残らず大阪に引越《ひきこ》して居て、私共《わたしども》は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子《ばっし》。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺《のこ》るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数《かぞ》え年で三つ。斯《か》くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。

 


兄弟五人中津の風に合わず

 

 扨《さて》中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所《いっしょ》に混和《こんか》することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟《いとこ》が沢山《たくさん》ある、父方《ててかた》の従兄弟もあれば母方《ははかた》の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許《いくら》もある、あるけれどもその者等《ものら》とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑《おか》しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云《い》う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳《わ》けで、お互に可笑《おか》しいから先《ま》ず話が少ない。夫《そ》れから又母は素《も》と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風《ふう》に慣れて、小供の髪の塩梅式《あんばいしき》、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外《ほか》にない。有合《ありあい》の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中《ひとなか》に出るのを気恥かしいように思《おもっ》て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。

 


儒教主義の教育

 

 夫れから最《も》う一つ之《これ》に加えると、私の父は学者であった。普通《あたりまえ》の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持《かねもち》、加島屋《かじまや》、鴻《こう》ノ池《いけ》というような者に交際して藩債の事を司《つかさ》どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪《たま》らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考《かんがえ》であるに、存《ぞん》じ掛《かけ》もなく算盤《そろばん》を執《とっ》て金の数を数えなければならぬとか、藩借《はんしゃく》延期の談判をしなければならぬとか云《い》う仕事で、今の洋学者とは大《おおい》に違って、昔の学者は銭を見るも汚《けが》れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳《わ》けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯《こ》う云うことがある。私は勿論《もちろん》幼少だから手習《てならい》どころの話でないが、最《も》う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷《くらやしき》の中に手習の師匠があって、其家《そこ》には町家《ちょうか》の小供も来る。其処《そこ》でイロハニホヘトを教えるのは宜《よろ》しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然《あたりまえ》の話であるが、その事を父が聞て、怪《け》しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云《い》うのは以《もっ》ての外《ほか》だ。斯《こ》う云《い》う処に小供は遣《やっ》て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速《さっそく》取返せと云《いっ》て取返した事があると云うことは、後《のち》に母に聞きました。何でも大変|喧《やか》ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺《かきのこ》したものなどを見れば真実|正銘《しょうみょう》の漢儒で、殊《こと》に堀河《ほりかわ》の伊藤東涯《いとうとうがい》先生が大信心《だいしんじん》で、誠意誠心、屋漏《おくろう》に愧《は》じずということ許《ばか》り心掛《こころがけ》たものと思われるから、その遺風は自《おのず》から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合《つきあい》は少く、明《あけ》ても暮れても唯《ただ》母の話を聞く許《ばか》り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思《おもっ》て、骨肉《こつにく》の従兄弟《いとこ》に対してさえ、心の中には何となく之《これ》を目下《めした》に見下《みくだ》して居て、夫等《それら》の者のすることは一切|咎《とがめ》もせぬ、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》、咎立《とがめだて》をしようと云《いっ》ても及ぶ話でないと諦《あき》らめて居ながら、心の底には丸で歯牙《しが》に掛けずに、云《い》わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能《よ》く饒舌《しゃべ》りもし、飛び廻《ま》わり刎《は》ね廻わりして、至極《しごく》活溌にてありながら、木に登ることが不得手《ふえて》で、水を泳ぐことが皆無《かいむ》出来ぬと云うのも、兎角《とかく》同藩中の子弟と打解《うちと》けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為《せい》でしょう。

 


厳ならずして家風正し

 

 今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊《こと》にして、他人の知らぬ処に随分|淋《さび》しい思いをしましたが、その淋しい間《あいだ》にも家風は至極《しごく》正しい。厳重な父があるでもないが、母子|睦《むつま》じく暮して兄弟喧嘩など唯《ただ》の一度もしたことがない。のみか、仮初《かりそめ》にも俗な卑陋《びろう》な事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧《やかま》しい六《むず》かしい人でないのに、自然に爾《そ》うなったのは、矢張《やは》り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物《なりもの》などの一条で、三味線《しゃみせん》とか何とか云《い》うものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様《かよう》なものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧《いわん》や玩《もてあそ》ぶべき者でないと云う考《かんがえ》を持て居るから、遂《つい》ぞ芝居見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令《ふれ》が出る。芝居は何日《なんか》の間《あいだ》あるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成《あいな》らぬ、住吉《すみよし》の社《やしろ》の石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、甚《はなは》だ厳重なようにあるが、唯《ただ》一片《いっぺん》の御《お》布令だけの事であるから、俗士族は脇差《わきざし》を一本|挟《さ》して頬冠《ほほかむ》りをして颯々《さっさつ》と芝居の矢来《やらい》を破《やぶっ》て這入《はい》る。若《も》しそれを咎《とが》めれば却《かえっ》て叱《しか》り飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払《はらっ》て行くに、士族は忍姿《しのびすがた》で却て威張《いばっ》て只《ただ》這入《はいっ》て観《み》る。然《しか》るに中以下|俗士族《ぞくしぞく》の多い中で、その芝居に行かぬのは凡《およ》そ私のところ一軒|位《ぐらい》でしょう。決して行かない。此処《ここ》から先《さ》きは行くことはならぬと云《い》えば、一足《ひとあし》でも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂《つい》ぞ一口《ひとくち》でも芝居の事を子供に云わず、兄も亦《また》行こうと云わず、家内中《かないじゅう》一寸《ちょいと》でも話がない。夏、暑い時の事であるから凉《すずみ》には行く。併《しか》しその近くで芝居をして居るからと云《いっ》て見ようともしない、どんな芝居を遣《やっ》て居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。

 


成長の上、坊主にする

 

 前《ぜん》申す通り、亡父《ぼうふ》は俗吏《ぞくり》を勤めるのが不本意であったに違いない。左《さ》れば中津を蹴飛《けとば》して外に出れば宜《い》い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何《いか》なる事にも不平を呑《の》んで、チャント小禄《しょうろく》に安《やす》んじて居たのは、時勢の為《た》めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独《ひと》り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯《こ》う云う事がある。今から推察すれば父の胸算《きょうさん》に、福澤の家は総領に相続させる積《つも》りで宜《よろ》しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療《や》せた骨太《ほねぶと》な子で、産婆《さんば》の申すに、この子は乳さえ沢山《たくさん》呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層《たいそう》喜んで、是《こ》れは好《い》い子だ、この子が段々成長して十《とお》か十一になれば寺に遣《やっ》て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時|阿父《おとっ》さんは何故《なぜ》坊主にすると仰《お》っしゃったか合点《がてん》が行かぬが、今|御存命《ごぞんめい》なればお前は寺の坊様《ぼうさま》になってる筈《はず》じゃと、何かの話の端《はし》には母が爾《そ》う申して居ましたが、私が成年の後《のち》その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年|経《たっ》ても一寸《ちょい》とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽《あしがる》の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間《あいだ》に挟《はさ》まって居る者も同様、何年経ても一寸《ちょい》とも変化と云《い》うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲《ここ》に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋《さかなや》の息子が大僧正になったと云うような者が幾人《いくら》もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云《いっ》たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。

 


門閥制度は親の敵

 

 如斯《こん》なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空《むな》しく不平を呑《の》んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又|初生児《しょせいじ》の行末《ゆくすえ》を謀《はか》り、之《これ》を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤《いきどお》ると共に、亡父《ぼうふ》の心事を察して独《ひと》り泣くことがあります。私の為《た》めに門閥制度は親の敵《かたき》で御座る。

 


年十四、五歳にして始めて読書に志す

 

 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人《して》がない。私の兄だからと云《いっ》て兄弟の長少|僅《わず》か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦《また》たった一人《ひとり》で、下女下男を置くと云《い》うことの出来る家ではなし、母が一人で飯《めし》を焚《た》いたりお菜《さい》を拵《こしら》えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛《がけ》もない。云わばヤリ放《はな》しである。藩の風《ふう》で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位《くらい》の事は遣《や》らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊《こと》に誰だって本を読むことの好《すき》な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚《はなは》だ嫌いであったから休《やすん》でばかり居て何もしない。手習《てならい》もしなければ本も読まない。根《ね》っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処《きんじょ》に知《しっ》て居る者は皆な本を読《よん》で居るのに、自分|独《ひと》り読まぬと云うのは外聞《がいぶん》が悪いとか恥かしいとか思《おもっ》たのでしょう。夫《そ》れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始《ゆきはじ》めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外《ほか》の者は詩経《しきょう》を読むの書経《しょきょう》を読むのと云《い》うのに、私は孟子《もうし》の素読《そどく》をすると云う次第である。所が茲《ここ》に奇《き》な事は、その塾で蒙求《もうぎゅう》とか孟子とか論語とかの会読《かいどく》講義をすると云うことになると、私は天禀《てんりん》、少し文才があったのか知らん、能《よ》く其《そ》の意味を解《げ》して、朝の素読に教えて呉《く》れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許《ばか》りでその意味は受取《うけとり》の悪い書生だから、之《これ》を相手に会読の勝敗なら訳《わ》けはない。

 


左伝通読十一偏

 

 その中、塾も二度か三度か更《か》えた事があるが、最も多く漢書を習《ならっ》たのは、白石《しらいし》と云う先生である。其処《そこ》に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解《げ》すことは何の苦労もなく存外《ぞんがい》早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何《いか》なるものを読《よん》だかと申すと、経書《けいしょ》を専らにして論語、孟子は勿論《もちろん》、すべて経義《けいぎ》の研究を勉《つと》め、殊《こと》に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰《もらっ》て善《よ》く読みました。ソレカラ蒙求、世説《せせつ》、左伝《さでん》、戦国策《せんごくさく》、老子《ろうし》、荘子《そうし》と云うようなものも能《よ》く講義を聞き、その先《さ》きは私|独《ひと》りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書《ぜんごかんしょ》、晋書《しんしょ》、五代史《ごだいし》、元明史略《げんみんしりゃく》と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞《しま》うのを、私は全部通読、凡《およ》そ十一|度《た》び読返して、面白い処は暗記して居た。夫《そ》れで一《ひ》ト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井《かめい》風《ふう》で、私の先生は亀井が大信心《だいしんじん》で、余り詩を作ることなどは教えずに寧《むし》ろ冷笑して居た。広瀬淡窓《ひろせたんそう》などの事は、彼奴《あいつ》は発句師《ほっくし》、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴《やつ》だと云《いっ》て居られました。先生が爾《そ》う云《い》えば門弟子《もんていし》も亦《また》爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽《らいさんよう》なども甚《はなは》だ信じない、誠に目下《めした》に見下《みくだ》して居て、「何だ粗末な文章、山陽《さんよう》などの書いたものが文章と云《い》われるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令《たと》い舌足らずで吃《どもっ》た所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造《たいそう》な剣幕で、先生から爾《そ》う教込《おしえこ》まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。白石《しらいし》先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非《ぜひ》交際しなければならぬ筈《はず》であるに一寸《ちょい》とも付合わぬ。野田笛浦《のだてきほ》と云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外《そがい》して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前《ちくぜん》の亀井《かめい》先生なども朱子学を取らずに経義《けいぎ》に一説を立てたと云うから、その流《りゅう》を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。

 


手端器用なり

 

 以上は学問の話しですが、尚《な》お此《こ》の外《ほか》に申せば、私は旧藩士族の小供に較《くら》べて見ると手の先《さ》きの器用な奴《やつ》で、物の工夫をするような事が得意でした。例えば井戸に物が墜《お》ちたと云えば、如何《どう》云《い》う塩梅《あんばい》にして之《これ》を揚《あ》げるとか、箪笥《たんす》の錠《じょう》が明《あ》かぬと云えば、釘《くぎ》の尖《さき》などを色々に抂《ま》げて遂に見事に之を明けるとか云う工風《くふう》をして面白がって居る。又《ま》た障子を張ることも器用で、自家の障子は勿論《もちろん》、親類へ雇《やと》われて張りに行くこともある。兎《と》に角《かく》に何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラ段々|年《とし》を取るに従て仕事も多くなって、固《もと》より貧士族《ひんしぞく》のことであるから、自分で色々工風して、下駄《げた》の鼻緒《はなお》もたてれば雪駄《せった》の剥《はが》れたのも縫うと云《い》うことは私の引受《ひきう》けで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものも繕《つくろ》うて遣《や》る。或《あるい》は畳針《たたみばり》を買《かっ》て来て畳の表《おもて》を附《つ》け替《か》え、又或は竹を割って桶《おけ》の箍《たが》を入れるような事から、その外《ほか》、戸《と》の破れ屋根の漏《も》りを繕うまで当前《あたりまえ》の仕事で、皆私が一人《ひとり》でして居ました。ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄を拵《こしら》えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀の身《み》を磨《と》ぐことは知らぬが、鞘《さや》を塗り柄《つか》を巻き、その外、金物《かなもの》の細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。今でも私の塗《ぬっ》た虫喰塗《むしくいぬ》りの脇差《わきざし》の鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。都《すべ》てコンナ事は近処《きんじょ》に内職をする士族があってその人に習いました。

 


鋸鑢に驚く

 

 金物《かなもの》細工をするに鑢《やすり》は第一の道具で、是《こ》れも手製に作って、その製作には随分苦心して居た所が、その後《のち》、年経《としへ》て私が江戸に来て先《ま》ず大に驚いたことがある、と申すは只《ただ》の鑢は鋼鉄《はがね》を斯《こ》うして斯う遣れば私の手にもヲシ/\出来るが、鋸《のこぎり》鑢《やすり》ばかりは六《むず》かしい。ソコデ江戸に這入《はいっ》たとき、今思えば芝の田町《たまち》、処も覚えて居る、江戸に這入て往来の右側の家で、小僧が鋸《のこぎり》の鑢《やすり》の目を叩《たたい》て居る。皮を鑢の下に敷いて鏨《たがね》で刻んで颯々《さっさつ》と出来る様子だから、私は立留《たちどまっ》て之《これ》を見て、心の中で扨々《さてさて》大都会なる哉《かな》、途方もない事が出来るもの哉、自分等は夢にも思わぬ、鋸の鑢を拵《こしら》えようと云《い》うことは全く考えたこともない、然《しか》るに小供がアノ通り遣《やっ》て居るとは、途方もない工芸の進んだ場所だと思て、江戸に這入たその日に感心したことがあると云うような訳《わ》けで、少年の時から読書の外《ほか》は俗な事ばかりして俗な事ばかり考えて居て、年を取《とっ》ても兎角《とかく》手先《てさ》きの細工事《さいくごと》が面白くて、動《やや》もすれば鉋《かんな》だの鑿《のみ》だの買集《かいあつ》めて、何か作って見よう、繕《つくろ》うて見ようと思うその物は皆《み》な俗な物ばかり、所謂《いわゆる》美術と云う思想は少しもない。平生《へいぜい》万事|至極《しごく》殺風景で、衣服住居などに一切|頓着《とんじゃく》せず、如何《どう》いう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。着物の上着か下着かソレモ構わぬ。況《ま》して流行の縞模様など考えて見たこともない程の不風流《ぶふうりゅう》なれども、何か私に得意があるかと云えば、刀剣《とうけん》の拵《こしら》えとなれば、是《こ》れは善《よ》く出来たとか、小道具の作柄《さくがら》釣合《つりあい》が如何《どう》とか云う考《かんがえ》はある。是れは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。

 


青天白日に徳利

 

 夫《そ》れから私が世間に無頓着《むとんちゃく》と云うことは少年から持《もっ》て生れた性質、周囲の事情に一寸《ちょい》とも感じない。藩の小士族などは酒、油、醤油などを買うときは、自分|自《みず》から町に使《つかい》に行かなければならぬ。所がその頃の士族一般の風《ふう》として、頬冠《ほほかむり》をして宵《よる》出掛《でかけ》て行く。私は頬冠は大嫌いだ。生れてからしたことはない。物を買うに何だ、銭《ぜに》を遣《やっ》て買うに少しも構うことはないと云《い》う気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挟《さ》すが、徳利《とくり》を提《さげ》て、夜は扨置《さてお》き白昼公然、町の店に行く。銭は家《うち》の銭だ、盗んだ銭じゃないぞと云うような気位《きぐらい》で、却《かえっ》て藩中者の頬冠をして見栄《みえ》をするのを可笑《おか》しく思《おもっ》たのは少年の血気、自分|独《ひと》り自惚《うぬぼれ》て居たのでしょう。ソレカラ又家に客を招く時に、大根や牛蒡《ごぼう》を煮て喫《くわ》せると云うことに就《つい》て、必要があるから母の指図《さしず》に従て働て居た。所で私は客などがウヂャ/\酒を呑《の》むのは大嫌い。俗な奴等だ、呑むなら早く呑《のん》で帰《かえっ》て仕舞《しま》えば宜《い》いと思うのに、中々帰らぬ。家は狭くて居処《いどころ》もない。仕方《しかた》ないから客の呑でる間《あいだ》は、私は押入の中に這入《はいっ》て寝て居る。何時《いつ》でも客をする時には、客の来る迄《まで》は働く、けれども夕方になると、自分も酒が好《すき》だから颯々《さっさつ》と酒を呑で飯《めし》を喰《くっ》て押入《おしいれ》に這入《はいっ》て仕舞い、客が帰た跡で押入から出て、何時《いつ》も寝る処に寝直すのが常例でした。


 夫《そ》れから私の兄は年を取て居て色々の朋友がある。時勢論などをして居たのを聞たこともある、けれども私は夫れに就て喙《くちばし》を容《い》れるような地位でない。只《ただ》追使《おいつかわ》れる許《ばか》り。その時、中津の人気《にんき》は如何《どう》かと云《い》えば、学者は挙《こぞっ》て水戸の御隠居様《ごいんきょさま》、即《すなわ》ち烈公《れっこう》の事と、越前の春嶽《しゅんがく》様の話が多い。学者は水戸の老公《ろうこう》と云い、俗では水戸の御隠居様と云う。御三家《ごさんけ》の事だから譜代《ふだい》大名の家来は大変に崇《あが》めて、仮初《かりそめ》にも隠居などゝ呼棄《よびすて》にする者は一人《ひとり》もない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居たから、私も左様《そう》思《おもっ》て居ました。ソレカラ江川太郎左衛門《えがわたろうざえもん》も幕府の旗本《はたもと》だから、江川様と蔭《かげ》でも屹《きっ》と様付《さまづけ》にして、之《これ》も中々評判が高い。或時《あるとき》兄などの話に、江川太郎左衛門と云う人は近世の英雄で、寒中|袷《あわせ》一枚着て居ると云うような話をして居るのを、私が側《そば》から一寸《ちょい》と聞て、何《な》にその位《くらい》の事は誰でも出来ると云うような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩|掻巻《かいまき》一枚《いちまい》着《き》て敷蒲団《しきぶとん》も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母は之を見て、何の真似か、ソンナ事をすると風邪を引くと云《いっ》て、頻《しき》りに止《と》めるけれども、トウ/\聴かずに一冬《ひとふゆ》通したことがあるが、是《こ》れも十五、六歳の頃、唯《ただ》人に負けぬ気で遣《やっ》たので身体《からだ》も丈夫であったと思われる。

 


兄弟問答

 

 又当時世間一般の事であるが、学問と云《い》えば漢学ばかり、私の兄も勿論《もちろん》漢学|一方《いっぽう》の人で、只《ただ》他の学者と違うのは、豊後《ぶんご》の帆足万里《ほあしばんり》先生の流《りゅう》を汲《く》んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云えば中々|大儒《だいじゅ》でありながら数学を悦《よろこ》び、先生の説に、鉄砲と算盤《そろばん》は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人《こやくにん》に任せ、鉄砲を足軽《あしがる》に任せて置くと云うのは大間違いと云うその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張《やは》り先輩に傚《なら》うて算盤《そろばん》の高尚な所まで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他は所謂《いわゆる》孝悌《こうてい》忠信で、純粋の漢学者に相違ない。或時《あるとき》兄が私に問《とい》を掛けて、「お前は是《こ》れから先き何になる積りかと云《い》うから、私が答えて、「左様《さよう》さ、先《ま》ず日本一の大金持《おおがねもち》になって思うさま金を使うて見ようと思いますと云うと、兄が苦い顔して叱《しか》ったから、私が返問《はんもん》して、「兄《にい》さんは如何《どう》なさると尋ねると、真面目《まじめ》に、「死に至るまで孝悌忠信と唯《ただ》一言《いちごん》で、私は「ヘーイと云《いっ》た切りそのまゝになった事があるが、先《ま》ず兄はソンナ人物で、又妙な処もある。或時《あるとき》私に向《むかっ》て、「乃公《おれ》は総領で家督をして居るが、如何《どう》かして六《むず》かしい家の養子になって見たい。何とも云《い》われない頑固な、ゴク喧《やかま》しい養父母に事《つか》えて見たい。決して風波《ふうは》を起させないと云うのは、畢竟《ひっきょう》養父母と養子との間柄《あいだがら》の悪いのは養子の方の不行届《ふゆきとどき》だと説を極めてたのでしょう。所が私は正反対で、「養子は忌《いや》な事だ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるかと云うような調子で、折々は互に説が違《ちがっ》て居ました。是《これ》れは[#「是《これ》れは」はママ]私の十六、七の頃と思います。


 母も亦《また》随分妙な事を悦《よろこ》んで、世間並《せけんなみ》には少し変わって居たようです。一体下等社会の者に附合《つきあ》うことが数寄《すき》で、出入りの百姓町人は無論《むろん》、穢多《えった》でも乞食でも颯々《さっさつ》と近づけて、軽蔑もしなければ忌《いや》がりもせず言葉など至極《しごく》丁寧でした。又宗教に就《つい》て、近処《きんじょ》の老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むこと許《ばか》りは可笑《おか》しくてキマリが悪くて出来ぬと常に私共に云《い》いながら、毎月米を袋に入れて寺に持《もっ》て行《いっ》て墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。旦那寺《だんなでら》の和尚は勿論《もちろん》、又私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主が居て、毎度私処に遊びに来れば、母は悦んで之《これ》を取持《とりもっ》て馳走《ちそう》でもすると云うような風《ふう》で、コンナ所を見れば唯《ただ》仏法が嫌いでもないようです。兎《と》に角《かく》に慈善心はあったに違いない。

 


乞食の虱をとる

 

 茲《ここ》に誠に穢《きたな》い奇談があるから話しましょう。中津に一人《ひとり》の女乞食があって、馬鹿のような狂者《きちがい》のような至極《しごく》の難渋者《なんじゅうもの》で、自分の名か、人の付けたのか、チエ/\と云《いっ》て、毎日市中を貰《もらっ》て廻《ま》わる。所が此奴《こいつ》が穢《きたな》いとも臭いとも云《い》いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に虱《しらみ》がウヤ/\して居るのが見える。母が毎度の事で天気の好《い》い日などには、おチエ此方《こっち》に這入《はいっ》て来いと云て、表の庭に呼込《よびこ》んで土間《どま》の草の上に坐らせて、自分は襷掛《たすきが》けに身構えをして乞食の虱狩《しらみがり》を始めて、私は加勢に呼出《よびだ》される。拾うように取れる虱を取《とっ》ては庭石の上に置き、マサカ爪《つめ》で潰《つぶ》すことは出来ぬから、私を側《そば》に置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石を以《もっ》て構えて居る。母が一疋《いっぴき》取て台石《だいいし》の上に置くと私はコツリと打潰《うちつぶ》すと云う役目で、五十も百も先《ま》ずその時に取れる丈《だ》け取て仕舞《しま》い、ソレカラ母も私も着物を払うて糠《ぬか》で手を洗うて、乞食には虱を取らせて呉《く》れた褒美《ほうび》に飯《めし》を遣《や》ると云う極《きま》りで、是《こ》れは母の楽《たのし》みでしたろうが、私は穢《きた》なくて穢なくて堪《たま》らぬ。今|思出《おもいだ》しても胸が悪いようです。

 


反故を踏みお札を踏む

 

 又私の十二、三歳の頃と思う。兄が何か反古《ほご》を揃《そろ》えて居る処を、私がドタバタ踏んで通った所が兄が大喝《たいかつ》一声、コリャ待てと酷《ひど》く叱《しか》り付けて、「お前は眼が見えぬか、之《これ》を見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫《おくだいらだいぜんのたいふ》と御名《おな》があるではないかと大造《たいそう》な権幕だから、「アヽ左様《そう》で御在《ござい》ましたか、私は知らなんだと云《い》うと、「知らんと云《いっ》ても眼《め》があれば見える筈《はず》じゃ、御名を足で踏むとは如何《どう》云う心得である、臣子《しんし》の道はと、何《なに》か六《むず》かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずには居られぬ。「私が誠に悪う御在ましたから堪忍《かんにん》して下さいと御辞儀《おじぎ》をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。「何の事だろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだと甚《はなは》だ不平で、ソレカラ子供心に独《ひと》り思案して、兄《にい》さんの云うように殿様の名の書いてある反古を踏んで悪いと云えば、神様の名のある御札《おふだ》を踏んだら如何《どう》だろうと思《おもっ》て、人の見ぬ処で御札を踏んで見た所が何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度は之を洗手場《ちょうずば》に持《もっ》て行《いっ》て遣《や》ろうと、一歩を進めて便所に試みて、その時は如何《どう》かあろうかと少し怖かったが、後《あと》で何ともない。「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんな事を云わんでも宜《い》いのじゃと独り発明したようなものだが、是《こ》れ許《ばか》りは母にも云われず姉にも云われず、云えば屹《きっ》と叱られるから、一人《ひとり》で窃《そっ》と黙って居ました。

 


稲荷様の神体を見る

 

 ソレカラ一つも二つも年を取れば自《おのず》から度胸も好《よ》くなったと見えて、年寄《としより》などの話にする神罰《しんばつ》冥罰《みょうばつ》なんと云《い》うことは大嘘《だいうそ》だと独《ひと》り自《みず》から信じ切《きっ》て、今度は一つ稲荷《いなり》様を見て遣《や》ろうと云う野心を起して、私の養子になって居た叔父様《おじさま》の家の稲荷の社《やしろ》の中には何が這入《はいっ》て居るか知らぬと明《あ》けて見たら、石が這入て居るから、その石を打擲《うちや》って仕舞《しまっ》て代りの石を拾うて入れて置き、又隣家の下村《しもむら》と云う屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札《ふだ》で、之《これ》も取《とっ》て棄《す》てゝ仕舞《しま》い平気な顔して居ると、間《ま》もなく初午《はつうま》になって、幟《のぼり》を立てたり大鼓《たいこ》を叩いたり御神酒《おみき》を上げてワイ/\して居るから、私は可笑《おか》しい。「馬鹿め、乃公《おれ》の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白いと、独《ひと》り嬉しがって居たと云うような訳《わ》けで、幼少の時から神様が怖いだの仏様が有難《ありがた》いだの云うことは一寸《ちょい》ともない。卜筮《うらない》呪詛《まじない》一切不信仰で、狐狸《きつねたぬき》が付くと云うようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。小供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。或時《あるとき》に大阪から妙な女が来たことがあるその女と云うのは、私共が大阪に居る時に邸《やしき》に出入《でいり》をする上荷頭《うわにかしら》の伝法寺屋松右衛門《でんぽうじやまつえもん》と云うものゝ娘で、年の頃三十|位《ぐらい》でもあったかと思う。その女が中津に来て、お稲荷様《いなりさま》を使うことを知《しっ》て居ると吹聴《ふいちょう》するその次第は、誰にでも御幣《ごへい》を持たして置て何か祈ると、その人に稲荷様が憑拠《とっつ》くとか何とか云《いっ》て、頻《しき》りに私の家《うち》に来て法螺《ほら》を吹《ふい》て居る。夫《そ》れからその時に私は十五、六の時だと思う。「ソリャ面白い、遣《やっ》て貰《もら》おう、乃公《おれ》がその御幣を持とう、持て居る御幣が動き出すと云《い》うのは面白い、サア持たして呉《く》れろと云うと、その女がつく/″\と私を見て居て、「坊《ぼん》さんはイケマヘンと云うから、私は承知しない。「今誰にでもと云たじゃないか、サア遣て見せろと、酷《ひど》くその女を弱らして面白かった事がある。

 


門閥の不平

 

 ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終《しじゅう》不平で堪《たま》らぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族の間《あいだ》に門閥制度がチャンと定《き》まって居て、その門閥の堅い事は啻《ただ》に藩の公用に就《つい》てのみならず、今日|私《わたくし》の交際上、小供の交際《つきあい》に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家《うち》のような下士族の者に向《むかっ》ては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何《どう》なすって、斯《こ》うなすってと云えば、先方《むこう》では貴様が爾《そ》う為《し》やって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもない只《ただ》小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、如何《どう》しても不平がなくては居られない。その癖《くせ》今の貴様とか何とか云《い》う上士族の子弟と学校に行《いっ》て、読書|会読《かいどく》と云うような事になれば、何時《いつ》でも此方《こっち》が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。夫《そ》れがその交際《つきあい》、朋友《ほういう》互に交って遊ぶ小供遊《こどもあそび》の間《あいだ》にも、ちゃんと門閥と云うものを持《もっ》て横風《おうふう》至極《しごく》だから、小供心に腹が立《たっ》て堪らぬ。

 


下執事の文字に叱かられる

 

 況《ま》して大人同士《おとなどうし》、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々|喧《やかま》ましいことで、私が覚えて居るが、或時《あるとき》私の兄が家老の処に手紙を遣《やっ》て、少し学者風でその表書《うわがき》に何々様|下執事《かしつじ》と書いて遣《やっ》たら大《おおい》に叱《しか》られ、下執事とは何の事だ、御取次衆《おとりつぎしゅう》と認《したた》めて来いと云《いっ》て、手紙を突返《つきかえ》して来た。私は之《これ》を見ても側《そば》から独《ひと》り立腹して泣《ない》たことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、如何《どう》したって是《こ》れはモウ出るより外《ほか》に仕様《しよう》がないと、始終《しじゅう》心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分《わか》るようになる中に、私の従兄弟《いとこ》などにも随分|一人《ひとり》や二人《ふたり》は学者がある。能《よ》く書を読む男がある。固《もと》より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が善《よ》くないとか何とかいろ/\不平を洩《も》らして居るのを聞いて、私は始終ソレを止《と》めて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て仕舞《しまう》が宜《よ》い、出なければ不平を云《い》わぬが宜《よい》と、毎度|止《とめ》て居たことがあるが、是《こ》れはマア私の生付《うまれつ》きの性質とでも云うようなものでしょう。

 


喜怒色に顕わさず

 

 或時《あるとき》私が何か漢書を読む中に、喜怨|色《いろ》に顕《あらわ》さずと云う一句を読《よん》で、その時にハット思うて大《おおい》に自分で安心決定《あんしんけつじょう》したことがある。「是れはドウモ金言《きんげん》だと思い、始終忘れぬようにして独《ひと》りこの教《おしえ》を守り、ソコデ誰が何と云《いっ》て賞《ほ》めて呉《く》れても、唯《ただ》表面《うわべ》に程《ほど》よく受けて心の中には決して喜ばぬ。又何と軽蔑されても決して怒《おこ》らない。どんな事があっても怒った事はない。矧《いわん》や朋輩同士で喧嘩をしたと云うことは只《ただ》の一度もない。ツイゾ人と掴合《つかみあ》ったの、打ったの、打たれたのと云うことは一寸《ちょい》ともない。是れは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒《いかり》に乗じて人の身体《からだ》に触れたことはない。所が先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方《しかた》のない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をして遣《や》るにも拘《かか》わらず、再三再四の不埓《ふらち》、或《あ》るときそのものが何処《どこ》に何をしたか夜中《やちゅう》酒に酔《よっ》て生意気な風《ふう》をして帰《かえっ》て来たゆえ、貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座して居ろと申渡《もうしわた》して置《おい》て、少《すこし》して行て見ればグウ/″\鼾《いびき》をして居る。この不埓者《ふらちもの》めと云《いっ》て、その肩の処をつらまえて引起《ひきおこ》して、目の醒《さ》めてるのを尚おグン/″\ゆたぶって遣《やっ》たことがある。その時|跡《あと》で独《ひと》り考えて、「コリャ悪い事をした、乃公《おれ》は生涯、人に向《むかっ》て此方《こっち》から腕力を仕掛《しか》けたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬ事をしたと思《おもっ》て、何だか坊主が戒律でも破《やぶっ》たような心地《こころもち》がして、今に忘れることが出来ません。その癖《くせ》私は少年の時から能《よ》く饒舌《しゃべ》り、人並《ひとなみ》よりか口数《くちかず》の多い程に饒舌って、爾《そ》うして何でも為《す》ることは甲斐々々《かいがい》しく遣て、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論と云《い》うことをしない。似合《たと》い議論すればと云《いっ》ても、ほんとうに顔を赧《あから》めて如何《どう》あっても勝たなければならぬと云う議論をしたことはない。何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起《やっき》となって来れば、此方《こちら》はスラリと流して仕舞《しま》う。「彼《あ》の馬鹿が何を馬鹿を云て居るのだと斯《こ》う思て、頓《とん》と深く立入ると云うことは決して遣らなかった。ソレでモウ自分の一身は何処《どこ》に行て如何《どん》な辛苦《しんく》も厭《いと》わぬ、唯《ただ》この中津に居ないで如何《どう》かして出て行《ゆ》きたいものだと、独り夫《そ》ればかり祈って居た処が、とうと長崎に行くことが出来ました。


底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
   2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
   1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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