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ダイガクコトハジメ - 青空文庫『学校』 - 『福翁自伝 - 始めて亜米利加に渡る』福沢諭吉

参考文献・書籍

初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号

関連:慶應義塾適塾福沢諭吉緒方洪庵長与専斎箕作秋坪

始めて亜米利加に渡る

咸臨丸

 ソレカラ私が江戸に来た翌年、即《すなわ》ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加《アメリカ》に軍艦を遣《や》ると云《い》う日本|開闢《かいびゃく》以来、未曾有《みぞう》の事を決断しました。扨《さて》その軍艦と申しても至極《しごく》小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入《でいり》に蒸気を焚《た》くばかり、航海中は唯《ただ》風を便《たよ》りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭《オランダ》から買入れ、価《あたい》は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸《かんりんまる》と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行《いっ》て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸《ようや》く進歩したから、この度《たび》使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯《こ》う云う訳《わ》けで幕議《ばくぎ》一決、艦長は時の軍艦奉行|木村摂津守《きむらせっつのかみ》、これに随従する指揮官は勝麟太郎《かつりんたろう》、運用方は佐々倉桐太郎《ささくらきりたろう》、浜口興右衛門《はまぐちおきえもん》、鈴藤勇次郎《すずふじゆうじろう》、測量は小野友五郎《おのともごろう》、伴鉄太郎《ばんてつたろう》、松岡磐吉《まつおかばんきち》、蒸気は肥田浜五郎《ひだはまごろう》、山本金次郎《やまもときんじろう》、公用方には吉岡勇平《よしおかゆうへい》、小永井五八郎《こながいごはちろう》、通弁官は中浜万次郎《なかはままんじろう》、少年士官には根津欽次郎《ねづきんじろう》、赤松大三郎《あかまつだいざぶろう》、岡田井蔵《おかだせいぞう》、小杉雅之進《こすぎまさのしん》と、医師二人、水夫|火夫《かふ》六十五人、艦長の従者を併《あわ》せて九十六人。船の割《わり》にしては多勢《たぜい》の乗組人《のりくみにん》でありしが、この航海の事に就《つい》ては色々お話がある。


 今度|咸臨丸《かんりんまる》の航海は日本|開闢《かいびゃく》以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は固《もと》より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時|亜米利加《アメリカ》の甲比丹《カピテン》ブルツクと云《い》う人が、太平洋の海底測量の為《た》めに小帆前船《しょうほまえせん》ヘネモコパラ号に乗《のっ》て航海中、薩摩の大島沖《おおしまおき》で難船して幸《さいわい》に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留《たいりゅう》の折柄《おりから》、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便《こうびん》だから之《これ》に乗《のっ》て帰国したいと云うので、その事が定《き》まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭《いや》だと云う。何故《なぜ》かと云うに、若《も》しその人達を連れて帰れば、却《かえっ》て銘々共《めいめいども》が亜米利加人に連れて行《いっ》て貰《もらっ》たように思われて、日本人の名誉に係《かか》るから乗せないと剛情を張る。夫《そ》れ是《こ》れで政府も余程|困《こまっ》た様子でありしが、到頭《とうとう》ソレを無理|圧付《おしつ》けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆《ぎりょう》を覚束《おぼつか》なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと云《い》う老婆心であったと思われる。

 


木村摂津守

 

 艦長|木村摂津守《きむらせっつのかみ》と云《い》う人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行《ゆ》くに違いない。夫《そ》れから私はどうもその船に乗《のっ》て亜米利加《アメリカ》に行《いっ》て見たい志《こころざし》はあるけれども、木村と云う人は一向《いっこう》知らない。去年大阪から出て来た計《ばか》りで、そんな幕府の役人などに縁のある訳《わ》けはない。所が幸《さいわい》に江戸に桂川《かつらがわ》と云う幕府の蘭家《らんか》の侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名を命《つ》けて宜《よろ》しい名家であるから、江戸は扨置《さてお》き日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレ故《ゆえ》私なども江戸に来《く》れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々《たびたび》その家に出入《しゅつにゅう》して居る。その桂川の家と木村の家とは親類――極《ごく》近い親類である。夫《そ》れから私は桂川に頼《たのん》で、如何《どう》かして木村さんの御供《おとも》をして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙を貰《もらっ》て木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許して呉《く》れて、連れて行て遣《や》ろうと斯《こ》う云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の世態《せたい》人情に於《おい》て、外国航海など云えば、開闢《かいびゃく》以来の珍事と云おうか、寧《むし》ろ恐ろしい命掛《いのちが》けの事で、木村は勿論《もちろん》軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初《かりそめ》にも自分から進《すすん》で行きたいと云うのであるから、実は彼方《あっち》でも妙な奴《やつ》だ、幸《さいわい》と云う位《くらい》なことであったろうと思う。直《すぐ》に許されて私は御供をすることになった。

 


浦賀に上陸して酒を飲む

 

 咸臨丸《かんりんまる》の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先《ま》ず浦賀に行《いっ》た。同時に日本から亜米利加《アメリカ》に使節が立《たっ》て行《ゆ》くので、亜米利加からその使節の迎船《むかいせん》が来た。ポーハタンと云《い》うその軍艦に乗《のっ》て行くのであるが、そのポーハタンは後《あと》から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊《とまっ》た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組《のりくん》で居る人は皆若い人で、もう是《こ》れが日本の訣別《おわかれ》であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云《いい》出《だ》した者がある。何《いず》れも同説で、夫《そ》れから陸《おか》に上《あがっ》て茶屋見たような処に行て、散々《さんざん》酒を飲《のん》でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖《てくせ》の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀《うがいぢゃわん》が一つあった、是《こ》れは船の中で役に立ちそうな物だと思《おもっ》て、一寸《ちょい》と私が夫《それ》を盗《ぬすん》で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐《おおあらし》、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯《めし》を盛《もっ》て本式に喫《た》べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立《たっ》て喰《く》う。誠に世話のない話で、大層《たいそう》便利を得て、亜米利加《アメリカ》まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭《とうとう》日本まで持《もっ》て帰《かえっ》て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経《ほどへ》て聞けばその浦賀で上陸して飲食《のみく》いした処は遊女屋だと云《い》う。夫《そ》れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼《あ》の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀《うがいぢゃわん》であったろう。思えば穢《きた》ないようだが、航海中は誠に調法、唯一《ゆいいち》の宝物《たからもの》であったのが可笑《おか》しい。

 


銀貨狼藉

 

 扨《さて》それから船が出てずっと北の方に乗出《のりだ》した。その咸臨丸《かんりんまる》と云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭を焚《た》くと云うことは出来ない。只《ただ》港を出るとき這入《はい》るときに焚く丈《だ》けで、沖に出れば丸で帆前船《ほまえせん》、と云うのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗《のっ》て太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船《はしけぶね》が四艘《しそう》あったが激浪《げきろう》の為《た》めに二艘取られて仕舞《しま》うた。その時は私は艦長の家来であるから、艦長の為めに始終左右の用を弁じて居た。艦長は船の艫《とも》の方の部屋に居るので、或《あ》る日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思て艫の部屋に行《いっ》た、所がその部屋に弗《ドルラル》が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。如何《どう》したのかと思うと、前夜の大嵐《おおあらし》で、袋に入れて押入《おしいれ》の中に積上げてあった弗、定《さだ》めし錠《じょう》も卸《おろ》してあったに違いないが、劇《はげ》しい船の動揺で、弗の袋が戸を押破《おしやぶっ》て外に散乱したものと見える。是《こ》れは大変な事と思て、直《すぐ》に引返《ひきかえ》して舳《おもて》の方に居る公用方の吉岡勇平《よしおかゆうへい》にその次第を告げると、同人も大に驚き、場所に駈付《かけつ》け、私も加勢《かせい》してその弗を拾集《ひろいあつ》めて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国|為替《かわせ》と云う事に就《つい》て一寸《ちょい》とも考えがないので、旅をすれば金が要《い》る、金が要《い》れば金を持《もっ》て行《ゆ》くと云う極《ごく》簡単な話で、何万|弗《ドルラル》だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵《おさ》めて置《おい》たその金が、嵐の為《た》めに溢《あふ》れ出たと云うような奇談を生じたのである。夫《そ》れでも大抵《たいてい》四十年前の事情が分りましょう。今ならば一向《いっこう》訳《わ》けはない。為替で一寸《ちょい》と送《おくっ》て遣《や》れば、何も正金《しょうきん》を船に積《つん》で行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋《たいよう》の立浪《たつなみ》が能《よ》く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くと云うことは毎度の事であった。四十五度傾くと沈むと云うけれども、幸《さいわい》に大きな災《わざわい》もなく只《ただ》その航路を進《すすん》で行《ゆ》く。進で行く中に、何も見えるものはないその中で以《もっ》て、一度|帆前船《ほまえせん》に遇《あ》うたことがあった。ソレは亜米利加《アメリカ》の船で、支那人を乗せて行くのだと云うその船を一艘見た切《ぎ》り、外《ほか》には何も見ない。

 


牢屋に大地震の如し

 

 所で三十七日|掛《かかっ》て桑港《サンフランシスコ》に着《つい》た。航海中私は身体《からだ》が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是《こ》れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入《はいっ》て毎日毎夜|大《おお》地震に遇《あっ》て居ると思えば宜《い》いじゃないかと笑《わらっ》て居る位《くらい》な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念《ねん》が骨に徹して居たものと見えて、一寸《ちょい》とも怖いと思《おもっ》たことがない。夫《そ》れから途中で水が乏しくなったので布哇《ハワイ》に寄るか寄らぬかと云《い》う説が起《おこっ》た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極《ごく》用心をすれば寄港して水を取《とっ》て行《ゆ》く、如何《どう》しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港《サンフランシスコ》に直航と斯《こ》う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外《ほか》は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大《おおい》に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加《アメリカ》の水夫が四、五人居ましたその水夫|等《ら》が、動《やや》もすると水を使うので、甲比丹《カピテン》ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云《いっ》たら甲比丹の云うには、水を使うたら直《すぐ》に鉄砲で撃殺《うちころ》して呉《く》れ、是《こ》れは共同の敵じゃから説諭も要《い》らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼《よん》で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾《そ》う思えと云うような訳《わ》けで水を倹約したから、如何《どう》やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢《どうぜい》合せて九十六人無事に亜米利加に着《つい》た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆|筒袖《つつそで》の着物は着て居るけれども穿物《はきもの》は草鞋《わらじ》だ。草鞋が何百何千|足《そく》も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買《かっ》て遣《やっ》て夫れから大に体裁が好《よ》くなった)。

 


日本国人の大胆

 

 併《しか》しこの航海に就《つい》ては大《おおい》に日本の為《た》めに誇ることがある、と云《い》うのは抑《そ》も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於《おい》て和蘭《オランダ》人から伝習したのが抑《そもそ》も事の始まりで、その業《ぎょう》成《なっ》て外国に船を乗出《のりだ》そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即《すなわ》ち目に蒸気船を見てから足掛《あしか》け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫《そ》れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉《か》らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆《ぎりょう》と云い、是《こ》れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人の甲比丹《カピテン》ブルックの助力は仮《か》らないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。亜米利加《アメリカ》の人も亦《また》自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合《みあわ》せる丈《だ》けの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは一寸《ちょっと》でもなかった。ソレ丈《だ》けは大に誇ても宜《よ》い事だと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡した所で、航海術を五年|学《まなん》で太平海を乗越《のりこ》そうと云うその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレ所《どころ》ではない。昔々《むかしむかし》露西亜《ロシア》のペートル帝が和蘭《オランダ》に行て航海術を学んだと云《い》うが、ペートル大帝《だいてい》でもこの事は出来なかろう。仮令《たと》い大帝は一種絶倫の人傑《じんけつ》なりとするも、当時の露西亜に於《おい》て日本人の如《ごと》く大胆にして且《か》つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。

 


米国人の歓迎祝砲

 

 海上|恙《つつが》なく桑港《サンフランシスコ》に着た。着くやいなや土地の重立《おもだっ》たる人々は船まで来て祝意を表《ひょう》し、之《これ》を歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山《くろやま》の如し。次《つい》で陸から祝砲を打つと云《い》うことになって、彼方《あちら》から打てば咸臨丸《かんりんまる》から応砲せねばならぬと、この事に就《つい》て一奇談がある。勝麟太郎《かつりんたろう》と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極《しごく》船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端《ばんたん》差図《さしず》する中に、彼《か》の祝砲の事が起《おこっ》た。所で勝の説に、ソレは迚《とて》も出来る事でない、ナマジ応砲などして遣《や》り傷《そこな》うよりも此方《こちら》は打たぬ方が宜《い》いと云う。爾《そ》うすると運用|方《がた》の佐々倉桐太郎《ささくらきりたろう》は、イヤ打てないことはない、乃公《おれ》が打《うっ》て見せる。「馬鹿云え、貴様達に出来たら乃公《おれ》の首を遣《や》ると冷《ひや》かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲して見せると云うので、夫《そ》れから水夫|共《ども》を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計を以《もっ》て時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張《いば》り出した。首尾|克《よ》く出来たから勝の首は乃公《おれ》の物だ。併《しか》し航海中、用も多いから暫《しばら》く彼《あ》の首を当人に預けて置くと云《いっ》て、大に船中を笑わした事がある。兎《と》も角《かく》もマア祝砲だけは立派に出来た。


 ソコで無事に港に着《つい》たらば、サアどうも彼方《あっち》の人の歓迎と云《い》うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様《しよう》がないと云う程《ほど》の歓迎。亜米利加《アメリカ》人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う訳《わ》けであるから、丁度《ちょうど》自分の学校から出た生徒が実業に着《つい》て自分と同じ事をすると同様、乃公《おれ》がその端緒《たんちょ》を開いたと云わぬ計《ばかり》の心持《こころもち》であったに違いない。ソコでもう日本人を掌《てのひら》の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港《サンフランシスコ》に上陸するや否《いな》や馬車を以《もっ》て迎いに来て、取敢《とりあ》えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立《おもだっ》た人が雲霞《うんか》の如《ごと》く出掛けて来た。様々の接待|饗応《きょうおう》。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸《かんりんまる》一行の止宿所《ししゅくじょ》に貸して呉《く》れ、船は航海中なか/\損所《そんしょ》が出来たからとて、船渠《ドック》に入れて修覆をして呉《く》れる。逗留《とうりゅう》中は勿論《もちろん》彼方《あっち》で賄《まかない》も何もそっくり為《し》て呉れる筈《はず》であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張《やは》り日本の飯《めし》でなければ喰《く》えないと云うので、自分賄と云う訳《わ》けにした所が、亜米利加《アメリカ》の人は兼《かね》て日本人の魚類を好むと云《い》うことを能《よ》く知《しっ》て居るので、毎日々々魚を持《もっ》て来て呉《く》れたり、或《あるい》は日本人は風呂に這入《はい》ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような訳《わ》け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節《おりふし》今日は桑港《サンフランシスコ》に来いと云《いっ》て誘う。夫《そ》れから船に乗《のっ》て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。

 


敷物に驚く

 

 所が此方《こっち》は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処《そこ》に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは分《わか》りそうなものだが、一見したばかりでは一寸《ちょい》と考《かんがえ》が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出《かけだ》す。成程《なるほど》是《こ》れは馬の挽《ひ》く車だと始めて発明するような訳け。何《いず》れも日本人は大小を挟《さ》して穿物《はきもの》は麻裏草履《あさうらぞうり》を穿《はい》て居る。ソレでホテルに案内されて行《いっ》て見ると、絨氈《じゅうたん》が敷詰《しきつ》めてあるその絨氈はどんな物かと云うと、先《ま》ず日本で云えば余程の贅沢者《ぜいたくもの》が一寸《いっすん》四方|幾干《いくら》と云《いっ》て金を出して買うて、紙入《かみいれ》にするとか莨入《たばこいれ》にするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々《さてさて》途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加《アメリカ》人が往来を歩いた靴の儘《まま》で颯々《さっさつ》と上《あが》るから此方《こっち》も麻裏草履でその上に上《あがっ》た。上ると突然《いきなり》酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、先《ま》ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何か浮《うい》て居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々《めいめい》の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様《ありさま》を申せば、列座の日本人中で、先《ま》ずコップに浮いて居るものを口の中に入れて胆《きも》を潰《つぶ》して吹出《ふきだ》す者もあれば、口から出さずにガリ/″\噛《か》む者もあると云《い》うような訳《わ》けで、漸《ようや》く氷が這入《はいっ》て居ると云うことが分《わか》った。ソコで又|煙草《タバコ》を一服と思《おもっ》た所で、煙草盆がない、灰吹《はいふき》がないから、そのとき私はストーヴの火で一寸《ちょい》と点《つ》けた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付《すいつ》けた所が、どうも灰吹がないので吸殻《すいがら》を棄《すて》る所がない。夫《そ》れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出《ふきだ》して、念を入れて揉《もん》で/\火の気のないように捩付《ねじつ》けて袂《たもと》に入れて、暫《しばら》くして又|後《あと》の一服を遣《や》ろうとするその時に、袂から煙《けぶり》が出て居る。何ぞ図《はか》らん、能《よ》く消したと思たその吸殻の火が紙に移《うつっ》て煙が出て来たとは大《おおい》に胆を潰した。

 


磊落書生も花嫁の如し

 

 都《すべ》てこんな事ばかりで、私は生れてから嫁入《よめいり》をしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云われて、笑う者もあれば雑談《ぞうだん》を云う者もあるその中で、お嫁さんばかり独《ひと》り静《しずか》にしてお行儀を繕《つくろ》い、人に笑われぬようにしようとして却《かえっ》てマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、凡《およ》そ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張《いばっ》て居た磊落《らいらく》書生も、始めて亜米利加《アメリカ》に来て花嫁のように小さくなって仕舞《しまっ》たのは、自分でも可笑《おか》しかった。夫《そ》れから彼方《あちら》の貴女紳士が打寄《うちよ》りダンシングとか云《いっ》て踊りをして見せると云《い》うのは毎度の事で、扨《さて》行《いっ》て見た処が少しも分《わか》らず、妙な風をして男女《なんにょ》が座敷中を飛廻《とびまわ》るその様子は、どうにも斯《こ》うにも唯《ただ》可笑《おかし》くて堪《たま》らない、けれども笑《わらっ》ては悪いと思うから成《な》るたけ我慢して笑わないようにして見て居たが、是《こ》れも初めの中は随分苦労であった。

 


女尊男卑の風俗に驚

 

 一寸《ちょっと》した事でも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗は少《すこし》も分らない。或《あ》る時にメールアイランドの近処《きんじょ》にバレーフォーと云《い》う処があって、其処《そこ》に和蘭《オランダ》の医者が居る。和蘭人は如何《どう》しても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを招待《しょうたい》したいから来て呉《く》れないかと云うので、その医者の家《うち》に行《いっ》た所が、田舎相応の流行家と見えて、中々の御馳走《ごちそう》が出る中に、如何《いか》にも不審な事には、お内儀《かみ》さんが出て来て座敷に坐り込んで頻《しき》りに客の取持《とりもち》をすると、御亭主が周旋奔走して居る。是れは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが当然《あたりまえ》であるに、左《さ》りとはどうも可笑しい。ソコで御馳走は何かと云うと、豚の子の丸煮が出た。是れにも胆《きも》を潰《つぶ》した。如何《どう》だ、マア呆返《あきれかえっ》たな、丸で安達《あだち》ヶ|原《はら》に行たような訳《わ》けだと、斯《こ》う思うた。散々《さんざん》馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかと云《い》う。ソレは面白い、久振《ひさしぶ》りだから乗ろうと云《いっ》て、その馬を借りて乗《のっ》て来た。艦長木村は江戸の旗本《はたもと》だから、馬に乗ることは上手《じょうず》だ。江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。夫《そ》れからその馬に乗てどん/\駆《か》けて来ると、亜米利加《アメリカ》人が驚いて、日本人が馬に乗ることを知《しっ》て居ると云うて不思議の顔をして居る。爾《そ》う云う訳けで双方共に事情が少しも分らない。

 


事物の説明に隔靴の歎あり

 

 夫れから又、亜米利加《アメリカ》人が案内して諸方の製作所などを見せて呉《く》れた。その時は桑港《サンフランシスコ》地方にマダ鉄道が出来ない時代である。工業は様々の製作所があって、ソレを見せて呉れた。其処《そこ》がどうも不思議な訳《わ》けで、電気利用の電灯はないけれども、電信はある。夫れからガルヴァニの鍍金《めっき》法と云《い》うものも実際に行《おこなわ》れて居た。亜米利加人の考《かんがえ》に、そう云うものは日本人の夢にも知らない事だろうと思《おもっ》て見せて呉《くれ》た所が、此方《こっち》はチャント知《しっ》て居る。是《こ》れはテレグラフだ。是れはガルヴァニの力で斯《こ》う云うことをして居るのだ。又砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くすると云《い》うことを遣《やっ》て居る。ソレを懇々《こんこん》と説くけれども、此方《こっち》は知《しっ》て居る、真空にすれば沸騰が早くなると云うことは。且《か》つその砂糖を清浄《しょうじょう》にするには骨炭《こったん》で漉《こ》せば清浄になると云うこともチャント知《しっ》て居る。先方では爾《そ》う云う事は思いも寄らぬ事だと斯《こ》う察して、懇《ねんご》ろに数えて呉《く》れるのであろうが、此方《こっち》は日本に居る中に数年《すねん》の間《あいだ》そんな事ばかり穿鑿《せんさく》して居たのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。只《ただ》驚いたのは、掃溜《はきだめ》に行《いっ》て見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の空※[#「士/冖/一/几」、第4水準2-5-22]《あきがら》などが沢山《たくさん》棄《す》てゝある。是《こ》れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾《くぎひろ》いがウヤ/\出て居る。所で亜米利加《アメリカ》に行て見ると、鉄は丸で塵埃《ごみ》同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。


 夫《そ》れから物価の高いにも驚いた。牡蠣《かき》を一罎《いちびん》買うと、半|弗《ドル》、幾つあるかと思うと二十粒か三十粒|位《ぐらい》しかない。日本では二十四|文《もん》か三十文と云うその牡蠣が、亜米利加では一分《いちぶ》二朱《にしゅ》もする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、呆《あき》れた話だと思たような次第で、社会上、政治上、経済上の事は一向《いっこう》分らなかった。

 


ワシントンの子孫如何と問う

 

 所で私が不図《ふと》胸に浮かんで或人《あるひと》に聞《きい》て見たのは外《ほか》でない、今|華盛頓《ワシントン》の子孫は如何《どう》なって居るかと尋ねた所が、その人の云《い》うに、華盛頓の子孫には女がある筈《はず》だ、今|如何《どう》して居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る容子《ようす》だと如何《いか》にも冷淡な答で、何とも思《おもっ》て居らぬ。是《こ》れは不思議だ。勿論《もちろん》私も亜米利加《アメリカ》は共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云えば大変な者に違いないと思うたのは、此方《こっち》の脳中には源頼朝《みなもとのよりとも》、徳川家康《とくがわいえやす》と云うような考《かんがえ》があって、ソレから割出《わりだ》して聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思うたことは今でも能《よ》く覚えて居る。理学上の事に就《つい》ては少しも胆《きも》を潰《つぶ》すと云うことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全く方角が付かなかった。或時《あるとき》にメールアイランドの海軍港に居る甲比丹《カピテン》のマツキヅガルと云う人が、日本の貨幣を見たいと云うので、艦長は予《かね》てそんな事の為《た》めに用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判を始めとして万延年中迄の貨幣を揃《そろ》えて甲比丹の処へ送《おくっ》て遣《やっ》た。所が珍らしい/\と計《ばか》りで、宝を貰《もらっ》たと云《い》う考《かんがえ》は一寸《ちょい》とも顔色《かおいろ》に見えない。昨日は誠に有難うと云《いっ》てその翌朝《よくあさ》お内儀《かみ》さんが花を持《もっ》て来て呉《く》れた。私はその取次《とりつぎ》をして独《ひと》り窃《ひそか》に感服した。人間と云《い》うものはアヽありたい、如何《いか》にも心の置き所が高尚だ、金や銀を貰たからと云てキョト/\悦《よろこ》ぶと云うのは卑劣な話だ、アヽありたいものだ、大きに感心したことがある。

 


軍艦の修繕に価を求めず

 

 前に云《い》うた通り亜米利加《アメリカ》人は誠に能《よ》く世話をして呉れた。軍艦を船渠《ドック》に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用《にゅうよう》な箱を拵《こしら》えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度《したく》も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用《にゅうよう》を払いたいと云うと、彼方《あっち》の人は笑《わらっ》て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸《ちょっ》とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。

 


始めて日本に英辞書を入る

 

 その時に私と通弁《つうべん》の中浜万次郎《なかはままんじろう》と云う人と両人がウエブストルの字引《じびき》を一冊ずつ買《かっ》て来た。是《こ》れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ外《ほか》には何も残ることなく、首尾|克《よ》く出帆して来た。

 


義勇兵

 

 所で私が二度目に亜米利加《アメリカ》に行《いっ》たとき、甲比丹《カピテン》ブルックに再会して八年目に聞《きい》た話がある。それは最初日本の咸臨丸《かんりんまる》が亜米利加に着《つい》たとき、桑港《サンフランシスコ》で中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛《さかん》にしなければならぬと云《い》うので、彼処《あすこ》に陸軍の出張所を見たようなものがある。其処《そこ》へ甲比丹《カピテン》ブルックが行《いっ》て、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、華盛頓《ワシントン》に伺《うかが》うた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断で遣《や》れと談じても、兎角《とかく》埓《らち》が明《あ》かないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ此方《こっち》に仕様《しよう》があると云《いっ》て、夫《そ》れから方向を転じて桑港《サンフランシスコ》の義勇兵に持込《もちこ》んで、どうだ斯《こ》う云う訳《わ》けであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は大悦《おおよろこ》びで直《すぐ》に用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断|軍役《ぐんえき》のあるではなし、大将は御医者様で、少将は染物屋《そめものや》の主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も持《もっ》て居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何か暇《ひま》な時か又は月夜などに操練《そうれん》をして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時は先《ま》ず若い者の道楽仕事であるから、折角《せっかく》拵《こしら》えた軍服も滅多《めった》に着ることがない所に、今度|甲比丹《カピタン》ブルックの話を聞《きい》て千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。

 


布哇寄港

 

 祝砲と共に目出度《めでたく》桑港《サンフランシスコ》を出帆して、今度は布哇《ハワイ》寄港と定《き》まり、水夫は二、三人|亜米利加《アメリカ》から連れて来たけれども、甲比丹《カピタン》ブルックは居《お》らず、本当の日本人ばかりで、何《どう》やら斯《こ》うやら布哇を捜出《さがしだ》して、其処《そこ》へ寄港して三、四日逗留した。逗留中、布哇の風俗に就《つい》ては物珍しく云《い》う程の要用はないだろう、と思うのは、三十年|前《ぜん》の布哇も今も変《かわっ》たことはなかろう、その土人の風俗は汚ない有様《ありさま》で、一見|蛮民《ばんみん》と云うより外《ほか》仕方《しかた》がない。王様にも遇《あ》うたが、是《こ》れも国王陛下と云えば大層《たいそう》なようだけれども、其処《そこ》へ行《いっ》て見れば驚く程の事はない。夫婦|連《づれ》で出て来て、国王は只《ただ》羅紗《ラシャ》の服を着て居ると云う位《くらい》な事、家も日本で云えば中位《ちゅうぐらい》の西洋造り、宝物《たからもの》を見せると云うから何かと思《おもっ》たら、鳥の羽で拵《こしら》えた敷物《しきもの》を持《もっ》て来て、是《こ》れが一番のお宝物だと云う。あれが皇弟か、その皇弟が笊《ざる》を提《さ》げて買物に行《ゆ》くような訳《わ》けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。

 


少女の写真

 

 それから布哇で石炭を積込《つみこ》んで出帆した。その時に一寸《ちょい》した事だが奇談がある。私は予《かね》て申す通り一体の性質が花柳《かりゅう》に戯《たわぶ》れるなどゝ云うことは仮初《かりそめ》にも身に犯した事のないのみならず、口でもそんな如何《いかが》わしい話をした事もない。ソレゆえ同行の人は妙な男だと云う位《くらい》には思うて居たろう。夫《そ》れから布哇《ハワイ》を出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。是《こ》れはどうだ(その写真は此処《ここ》に在りと、福澤先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年|前《ぜん》の福澤先生の傍《かたわら》に立ち居るは十五、六の少女なり)。その写真と云《い》うのはこの通りの写真だろう。ソコでこの少女が芸者か女郎か娘かは勿論《もちろん》その時に見さかいのある訳《わ》けはない――お前達は桑港《サンフランシスコ》に長く逗留して居たが、婦人と親しく相並《あいなら》んで写真を撮《と》るなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、朝夕《あさゆう》口でばかり下《くだ》らない事を云《いっ》て居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、大《おおい》に冷《ひや》かして遣《やっ》た。是《こ》れは写真屋の娘で、歳は十五とか云た。その写真屋には前にも行《いっ》たことがあるが、丁度《ちょうど》雨の降る日だ、その時私|独《ひと》りで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、亜米利加《アメリカ》の娘だから何とも思いはしない、取りましょうと云うて一緒に取《とっ》たのである。この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、口惜《くや》しくも出来なかろう、と云うのは桑港でこの事を云出《いいだ》すと直《すぐ》に真似《まね》をする者があるから黙《だまっ》て隠して置《おい》て、いよ/\布哇を雛れてもう亜米利加にも何処《どこ》にも縁のないと云う時に見せて遣《やっ》て、一時の戯《たわぶれ》に人を冷かしたことがある。

 


不在中桜田の事変

 

 帰る時は南の方を通《とおっ》たと思う。行くときとは違《ちがっ》て至極《しごく》海上は穏かで、何でもその歳《とし》には閏《うるう》があって、閏《うるう》を罩《こ》めて五月五日の午前に浦賀に着《ちゃく》した。浦賀には是非《ぜひ》錨《いかり》を卸《おろ》すと云《い》うのがお極《きま》りで、浦賀に着するや否《いな》や、船中数十日のその間は勿論《もちろん》湯に這入《はい》ると云うことの出来る訳《わ》けもない、口嗽《うがい》をする水がヤット出来ると云う位《くらい》な事で、身体《からだ》は汚れて居るし、髪はクシャ/\になって居る、何は扨置《さてお》き一番先に月代《さかいき》をして夫《そ》れから風呂に這入ろうと思うて、小舟《こぶね》に乗《のっ》て陸《おか》に着くと、木村のお迎《むかえ》が数十日前から浦賀に詰掛《つめか》けて居て、木村の家来に島安太郎《しまやすたろう》と云う用人《ようにん》がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上《あがっ》てその島に遇《あ》うた。正月の初《はじめ》に亜米利加《アメリカ》に出帆して浦賀に着《つ》くまでと云うものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云うものもない。その間《あいだ》は僅《わずか》に六箇月の間《あいだ》であるが、故郷の様子は何も聞かないから、殆《ほと》んど六ヶ年も遇わぬような心地《こころもち》。ヒョイと浦賀の海岸で島に遇《あっ》て、イヤ誠にお久振《ひさしぶ》り、時に何か日本に変《かわっ》た事はないかと尋ねた所が、島安太郎が顔色《かおいろ》を変えて、イヤあったとも/\大変な事が日本にあったと云うその時、私が、一寸《ちょい》と島さん待《まっ》て呉《く》れ、云うて呉れるな、私が中《あ》てゝ見せよう、大変と云えば何でも是《こ》れは水戸の浪人が掃部様《かもんさま》の邸《やしき》に暴込《あばれこ》んだと云うような事ではないかと云うと、島は更《さ》らに驚き、どうしてお前さんはそんな事を知《しっ》て居る、何処《どこ》で誰《だ》れに聞《きい》た、聞たって聞《きか》ないたって分るじゃないか、私はマア雲気《うんき》を考えて見るに、そんな事ではないかと思う、イヤ是《こ》れはどうも驚いた、邸《やしき》に暴込んだ所ではない、斯《こ》う/\云《い》う訳《わ》けだと云て、桜田騒動の話をした。その歳《とし》の三月三日に桜田に大《おお》騒動のあった時であるから、その事を話したので、天下の治安と云うものは大凡《おおよ》そ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えて見るとゞうせ騒動がありそうな事だと思《おもっ》て居たから、偶然にも中《あたっ》たので誠に面白かった。
 その前年から徐々《そろそろ》攘夷説が行《おこなわ》れると云う世の中になって来て、亜米利加《アメリカ》に逗留中、艦長が玩具《おもちゃ》半分《はんぶん》に蝙蝠傘《かわほりがさ》を一本|買《かっ》た。珍しいものだと云《いっ》て皆|寄《よっ》て拈《ひね》くって見ながら、如何《どう》だろう之《これ》を日本に持《もっ》て帰《かえっ》てさして廻《まわっ》たら、イヤそれは分切《わかりきっ》て居る、新銭座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間《あいだ》に浪人者に斬《き》られて仕舞《しま》うに違いない、先《ま》ず屋敷の中で折節《おりふし》ひろげて見るより外《ほか》に用のない品物だと云たことがある。凡《およ》そこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が盛《さかん》になって来た。

 


幕府に雇わる

 

 亜米利加《アメリカ》から帰《かえっ》てから塾生も次第に増して相替《あいかわ》らず教授して居る中《うち》に、私は亜米利加渡航を幸《さいわい》に彼の国人《こくじん》に直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉《ことごと》く英書を教える。所がマダなか/\英書が六《むず》かしくて自由自在に読めない。読めないから便《たよ》る所は英蘭対訳の字書のみ。教授とは云《い》いながら、実は教うるが如《ごと》く学ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方《がいこくがた》(今で云えば外務省)に雇われた。その次第は外国の公使領事から政府の閣老《かくろう》又は外国奉行へ差出す書翰《しょかん》を飜訳する為《た》めである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ず和蘭《オランダ》の飜訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字《よこもじ》読む者とては一人《ひとり》もなく、止《や》むを得ず吾々《われわれ》如き陪臣《ばいしん》(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたに就《つい》ては自《おのず》から利益のあると云うのは、例えば英公使、米公使と云うような者から来る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添うてある。如何《どう》かしてこの飜訳文を見ずに直接《じか》に英文を飜訳してやりたいものだと思《おもっ》て試みる、試みて居る間《あいだ》に分《わか》らぬ処がある、分らぬと蘭訳文を見る、見ると分ると云うような訳《わ》けで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省には自《おのず》から書物がある、種々《しゅじゅ》様々な英文の原書がある。役所に出て居て読むのは勿論《もちろん》、借りて自家《うち》へ持《もっ》て来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身の為《た》めに大に便利になりました。


底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
   2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
   1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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