初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
大阪を去て江戸に行く
私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時である。同年、江戸の奥平《おくだいら》の邸《やしき》から、御用《ごよう》があるから来いと云《いっ》て、私を呼《よび》に来た。それは江戸の邸に岡見彦曹《おかみひこぞう》と云《い》う蘭学|好《ずき》の人があって、この人は立派な身分のある上士族で、如何《どう》かして江戸藩邸に蘭学の塾を開きたいと云うので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をして居た。所《ところ》で奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木《まつき》弘庵[#「庵」に「〔安〕」の注記]、杉亨二《すぎこうじ》と云うような学者を雇《やと》うて居たような訳《わ》けで、私が大阪に居ると云うことが分《わかっ》たものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べと云うことになって、ソレで私を呼びに来たので、その時江戸|詰《づめ》の家老には奥平壹岐《おくだいらいき》が来て居る。壹岐と私との関係に就《つい》ては、私は自《みず》から自慢をしても宜《よ》いことがある。是《こ》れは如何《どう》しても悪感情がなければならぬ筈《はず》、衝突がなければならぬ筈、けれども私はその人と一寸《ちょい》とも戦《たたかっ》たことがない。彼は私を敵視し愚弄《ぐろう》して居ると云うことは長崎を出た時の様《さま》でチャント分《わか》って居る。長崎を立つ時に、「貴様は中津に帰れ。帰《かえっ》たら誰にこの手紙を渡せ。誰に斯《こ》う伝言せよと命ずるからヘイ/\と畏《かしこま》りながら、心の中では舌を出して、「馬鹿言え、乃公《おれ》は国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞと云わぬばかりに、席を蹴立《けた》てゝ出たことも、後《のち》になれば先方《さき》でも知《しっ》て居る。けれどもその後私は毎度本人に逢《あ》うて仮初《かりそめ》にも怨言《えんげん》を云た事のない所ではない、態《わざ》と旧恩を謝すると云う趣《おもむき》ばかり装うて居る中に、又もやその大切な原書を盗写《ぬすみうつ》したこともある。先方《さき》も悪ければ此方《こっち》も十分悪い。けれども唯《ただ》私がその事を人に語らず顔色《かおいろ》にも見せずに、御家老様《ごかろうさま》と尊敬して居たから、所謂《いわゆる》国家老《くにがろう》のお坊《ぼう》さんで、今度私を江戸に呼寄《よびよ》せる事に就《つい》ても、家老に異議なく直《すぐ》に決して幸《さいわい》であったが、実を申せば壹岐《いき》よりも私の方が却《かえっ》て罪が深いようだ。
三人同行
大阪から江戸に来るに就ては、何は扨置《さてお》き中津に帰《かえっ》て一度母に逢《あ》うて別《わかれ》を告げて来ましょうと云《い》うので、中津に帰たその時は虎列拉《コレラ》の真盛《まっさか》りで、私の家の近処《きんじょ》まで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病|最中《さいちゅう》、船に乗《のっ》て大阪に着《つい》て暫時《ざんじ》逗留《とうりゅう》、ソレカラ江戸に向《むかっ》て出立《しゅったつ》と云うことにした所が、凡《およ》そ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中|並《ならび》に在勤中家来を一人|呉《く》れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人|振《ぶり》の金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何も要《い》らぬ。けれども茲《ここ》に旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何《どう》だ、実は斯《こ》う云《い》う訳《わ》けで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れて行《いっ》て呉《く》れと云《いっ》たが岡本周吉《おかもとしゅうきち》、即《すなわ》ち古川節蔵《ふるかわせつぞう》である(広島の人)。よし連れて行て遣《や》ろう。連れて行くが、君は飯《めし》を炊《た》かなければならぬが宜《よろ》しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜《なべかま》も貸して呉れるが、本当の家来を止《や》めにすれば飯炊《めしたき》がない。その代《かわり》に連れて行くのだが如何《どう》だ。「飯を炊く位《ぐらい》の事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、夫《そ》れから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連《みちづれ》は私と岡本、もう一人《ひとり》備中の者で原田磊蔵《はらだらいぞう》と云う矢張《やは》り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論《もちろん》歩く。その時は丁度《ちょうど》十月下旬で少々寒かったが小春《こはる》の時節、一日も川止《かわどめ》など云う災難に遇《あ》わず滞《とどこ》おりなく江戸に着て、先《ま》ず木挽町《こびきちょう》汐留《しおどめ》の奥平屋敷に行た所が、鉄砲洲《てっぽうず》に中屋敷がある、其処《そこ》の長屋を貸すと云うので、早速《さっそく》岡本と私とその長屋に住込《すみこん》で、両人自炊の世帯持《しょたいもち》になった、夫れから同行の原田は下谷《したや》練塀小路《ねりべいこうじ》の大医《たいい》大槻俊斎《おおつきしゅんさい》先生の処へ入込《いりこん》だ。江戸へ参れば知己《ちき》朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。
江戸に学ぶに非ず教るなり
扨《さて》私が江戸に参《まいっ》て鉄砲洲の奥平中屋敷に住《すまっ》て居ると云う中《うち》に、藩中の子弟が三人、五人ずつ学びに来るようになり、又他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授して居たが、前にも云《い》う通り大阪の書生は修業する為《ため》に江戸に行くのではない、行けば教えに行くのだと云う自《おのず》から自負心があった。私も江戸に来て見た処で、全体江戸の蘭学社会は如何《どう》云うものであるか知りたいものだと思《おもっ》て居る中《うち》に、或《あ》る日|島村鼎甫《しまむらていほ》の家に尋ねて行たことがある。勿論《もちろん》緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の飜訳などして居た。私も甚《はなは》だ能《よ》く知《しっ》て居るので、尋ねて参れば何時《いつ》も学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の飜訳|最中《さいちゅう》、その原書を持出《もちだ》して云うには、この文の一節が如何《どう》しても分《わか》らないと云う。夫《そ》れから私が之《これ》を見た所が、成程《なるほど》解《げ》し悪《にく》い所だ。依《よっ》て主人に向《むかっ》て、是《こ》れは外《ほか》の朋友にも相談して見たかと云《い》えば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たが如何《どう》しても分《わか》らぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕が之《これ》を解《げ》して見せようと云《いっ》て、本当に見た所が中々|六《むず》かしい。凡《およ》そ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体|是《こ》れは斯《こ》う云う意味であるが如何《どう》だ、物事は分《わかっ》て見ると造作《ぞうさ》のないものだと云て、主客《しゅかく》共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、蝋燭《ろうそく》を二本|点《つ》けてその灯光《あかり》をどうかすると影法師が如何《どう》とかなると云う随分|六《むず》かしい処で、島村の飜訳した生理発蒙《せいりはつもう》と云う訳書中にある筈《はず》です。この一事で私も窃《ひそか》に安心して、先《ま》ず是《こ》れならば江戸の学者も左《さ》まで恐れることはないと思うたことがある。
それから又原書の不審な処を諸先輩に質問して窃にその力量を試したこともある。大阪に居る中《うち》に毎度人の読損《よみそこな》うた処か人の読損いそうな処を選出《えりだ》して、そうして其《そ》れを私は分らない顔して不審を聞きに行くと、毎度の事で、学者先生と称して居る人が読損うて居るから、此方《こっち》は却《かえっ》て満足だ。実は欺《あざむい》て人を試験するようなもので、徳義上に於《おい》て相済《あいす》まぬ罪なれども、壮年血気の熱心、自《みず》から禁ずることが出来ない。畢竟《ひっきょう》私が大阪に居る間《あいだ》は同窓生と共に江戸の学者を見下《みく》だして取るに足らないものだと斯《こ》う思うて居ながらも、只《ただ》ソレを空《くう》に信じて宜《い》い気になって居ては大間違《おおまちがい》が起るから、大抵《たいてい》江戸の学者の力量を試さなければならぬと思て、悪いこととは知りながら試験を遣《やっ》て見たのです。
英学発心
ソコデ以《もっ》て蘭学社会の相場は大抵分て先《ま》ず安心ではあったが、扨《さて》又|此処《ここ》に大《だい》不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即《すなわ》ち安政六年、五国《ごこく》条約と云《い》うものが発布になったので、横浜は正《まさ》しく開《ひら》けた計《ばか》りの処、ソコデ私は横浜に見物に行《いっ》た。その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居る丈《だ》けで、堀立小屋《ほったてごや》見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処《そこ》に住《すん》で店を出して居る。其処《そこ》へ行て見た所が一寸《ちょい》とも言葉が通じない。此方《こっち》の云うことも分《わか》らなければ、彼方《あっち》の云うことも勿論《もちろん》分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙《はりがみ》も分らぬ。何を見ても私の知《しっ》て居る文字《もんじ》と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。居留地をブラ/\歩く中《うち》に独逸《ドイツ》人でキニツフルと云う商人の店に打当《ぶちあたっ》た。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方《こっち》の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸《ちょい》と買物をしたりして江戸に帰《かえっ》て来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度《ちょうど》一昼夜歩いて居た訳《わ》けだ。
小石川に通う
横浜から帰《かえっ》て、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞《しまっ》た。是《こ》れは/\どうも仕方《しかた》がない、今まで数年《すねん》の間《あいだ》、死物狂《しにものぐる》いになって和蘭《オランダ》の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左《さ》りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処《あすこ》に行《おこなわ》れて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云《い》うことは予《かね》て知《しっ》て居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開《ひら》けかゝって居る、左《さ》すればこの後《ご》は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚《とて》も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外《ほか》に仕方《しかた》がないと、横浜から帰た翌日だ、一度《ひとたび》は落胆したが同時に又|新《あらた》に志《こころざし》を発して、夫《そ》れから以来は一切万事英語と覚悟を極《き》めて、扨《さて》その英語を学ぶと云うことに就《つい》て如何《どう》して宜《いい》か取付端《とりつきは》がない。江戸中に何処《どこ》で英語を教えて居ると云う所のあろう訳《わ》けもない。けれども段々|聞《きい》て見ると、その時に条約を結ぶと云うが為《た》めに、長崎の通詞《つうじ》の森山多吉郎《もりやまたきちろう》と云う人が、江戸に来て幕府の御用を勤めて居る。その人が英語を知《しっ》て居ると云う噂を聞出《ききだ》したから、ソコで森山の家に行《いっ》て習いましょうと斯《こ》う思うて、その森山と云う人は小石川の水道町に住居して居たから、早速《さっそく》その家に行て英語教授の事を頼入《たのみい》ると、森山の云うに、昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角《せっかく》習おうと云《い》うならば教えて進ぜよう、就《つい》ては毎日出勤前、朝早く来いと云うことになって、その時私は鉄砲洲《てっぽうず》に住《すまっ》て居て、鉄砲洲から小石川まで頓《やが》て二里|余《よ》もありましょう、毎朝早く起きて行く。所が今日はもう出勤前だから又明朝来て呉《く》れ、明《あ》くる朝早く行くと、人が来て居て行かないと云う。如何《どう》しても教えて呉《く》れる暇《ひま》がない。ソレは森山の不親切と云う訳《わ》けではない、条約を結ぼうと云う時だから中々忙くて実際に教える暇《ひま》がありはしない。そうすると、こんなに毎朝来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来て呉れぬかと云う。ソレじゃ晩に参りましょうと云《いっ》て、今度は日暮《ひぐれ》から出掛けて行く。あの往来は丁度《ちょうど》今の神田橋一橋外の高等商業学校のある辺《あたり》で、素《も》と護持院《ごじいん》ヶ|原《はら》と云う大きな松の樹などが生繁《おいしげ》って居る恐ろしい淋しい処で、追剥《おいはぎ》でも出そうな処だ。其処《そこ》を小石川から帰途《かえりみち》に夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さと云うものは今でも能《よ》く覚えて居る。所がこの夜稽古《よけいこ》も矢張《やは》り同じ事で、今晩は客がある、イヤ急に外国|方《がた》(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬと云うような訳けで、頓《とん》と仕方《しかた》がない。凡《およ》そ其処《そこ》に二月《ふたつき》か三月《みつき》通うたけれども、どうにも暇がない。迚《とて》もこんな事では何も覚えることも出来ない。加うるに森山と云《い》う先生も何も英語を大層《たいそう》知て居る人ではない、漸《ようや》く少し発音を心得て居ると云う位《ぐらい》。迚《とて》も是《こ》れは仕方《しかた》ないと、余儀なく断念。
蕃書調所に入門
その前に私が横浜に行《いっ》た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊|買《かっ》て来た。ソレを独《ひとり》で読《よむ》とした所で字書《じしょ》がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分|一人《ひとり》で解《げ》することが出来るから、どうか字書を欲《ほし》いものだと云《いっ》た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所《ばんしょしらべじょ》と云う幕府の洋学校がある。其処《そこ》には色々な字書があると云うことを聞出《ききだ》したから、如何《どう》かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜《だしぬ》けに公儀(幕府)の調所《しらべしょ》に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門|願《ねがい》にはその藩の留守居《るすい》と云うものが願書に奥印《おくいん》をして然《しか》る後《のち》に入門を許すと云う。夫《そ》れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私は※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》を着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥《みつくりりんしょう》のお祖父《じい》さんの箕作|阮甫《げんぽ》と云う人が調所の頭取《とうどり》で、早速《さっそく》入門を許して呉《く》れて、入門すれば字書を借《か》ることが出来る。直《すぐ》に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取《うけとっ》て、通学生の居る部屋があるから其処《そこ》で暫《しばら》く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を包《つつん》で帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処《ここ》で見るならば許して苦しくないが、家に持帰《もちかえ》ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲《てっぽうず》から九段阪下まで毎日|字引《じびき》を引きに行くと云《い》うことは迚《とて》も間《ま》に合《あわ》ぬ話だ。ソレも漸《ようや》く入門してたった一日|行《いっ》た切《ぎり》で断念。
扨《さて》如何《どう》したら宜《よ》かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書《じしょ》はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと云《い》う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価《あたい》五両と云う。夫《そ》れから私は奥平《おくだいら》の藩に歎願して買取《かいとっ》て貰《もらっ》て、サアもう是《こ》れで宜《よろ》しい、この字引さえあればもう先生は要《い》らないと、自力《じりき》研究の念を固くして、唯《ただ》その字引と首引《くびっぴき》で、毎日毎夜|独《ひと》り勉強、又|或《あるい》は英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。
英学の友を求む
そこで自分の一身は爾《そ》う定《き》めた所で、是《こ》れは如何《どう》しても朋友がなくてはならぬ。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者は悉《ことごと》く不便を感じて居るに違いない。迚《とて》も今まで学《まなん》だのは役に立たない。何でも朋友に相談をして見ようと斯《こ》う思うたが、この事も中々|易《やす》くないと云《い》うのは、その時の蘭学者全体の考《かんがえ》は、私を始《はじめ》として皆、数年《すねん》の間《あいだ》刻苦《こっく》勉強した蘭学が役に立たないから、丸で之《これ》を棄《す》てゝ仕舞《しまっ》て英学に移ろうとすれば、新《あらた》に元の通りの苦みをもう一度しなければならぬ、誠に情ない、つらい話である、譬《たと》えば五年も三年も水練《すいれん》を勉強して漸《ようや》く泳ぐことが出来るようになった所で、その水練を罷《や》めて今度は木登りを始めようと云うのと同じ事で、以前の勉強が丸で空《くう》になると、斯《こ》う考えたものだから如何《いか》にも決断が六《むず》かしい。ソコデ学友の神田孝平《かんだたかひら》に面会して、如何《どう》しても英語を遣《や》ろうじゃないかと相談を掛けると、神田の云うに、イヤもう僕も疾《と》うから考えて居て実は少し試みた。試みたが如何《いか》にも取付端《とりつきは》がない。何処《どこ》から取付《とりつい》て宜《い》いか実に訳《わ》けが分らない。併《しか》し年月を経《ふ》れば何か英書を読むと云う小口《こぐち》が立つに違いないが、今の処では何とも仕方がない。マア君達は元気が宜《い》いから遣《やっ》て呉《く》れ、大抵《たいてい》方角が付くと僕も屹《きっ》と遣《や》るから、ダガ今の処では何分自分で遣ろうと思わないと云う。夫《そ》れから番町の村田《むらた》造[#「造」に「〔蔵〕」の注記]六(後に大村益次郎《おおむらますじろう》)の処へ行て、その通りに勧めた所が、是《こ》れは如何《どう》しても遣らぬと云う考《かんがえ》で、神田とは丸で説が違う。「無益な事をするな。僕はそんな物は読まぬ。要《い》らざる事だ。何もそんな困難な英書を辛苦《しんく》して読むがものはないじゃないか。必要な書は皆|和蘭《オランダ》人が飜訳するから、その飜訳書を読めばソレで沢山《たくさん》じゃないかと云《い》う。「成程《なるほど》それも一説だが、けれども和蘭人が何も角《か》も一々飜訳するものじゃない。僕は先頃《せんころ》横浜に行《いっ》て呆《あき》れて仕舞《しまっ》た。この塩梅《あんばい》では迚《とて》も蘭学は役に立たぬ。是非《ぜひ》英書を読まなくてはならぬではないかと勧むれども、村田は中々同意せず、「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。遣《や》るなら君達は遣り給え。僕は必要があれば蘭人の飜訳したのを読むから構わぬと威張《いばっ》て居る。是《こ》れは迚《とて》も仕方《しかた》がないと云うので今度は小石川に居る原田敬策《はらだけいさく》にその話をすると、原田は極《ごく》熱心で、何でも遣ろう。誰がどう云うても構わぬ。是非遣ろうと云うから、「爾《そ》うか、ソレは面白い。そんなら二人《ふたり》で遣ろう。どんな事があっても遣遂《やりと》げようではないかと云うので、原田とは極《ごく》説《せつ》が合うて、愈《いよい》よ英書を読むと云《い》う時に、長崎から来て居た小供があって、その小供が英語を知《しっ》て居ると云うので、そんな小供を呼《よん》で来て発音を習うたり、又|或《あるい》は漂流人で折節《おりふし》帰るものがある、長く彼方《あっち》へ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪《たず》ねて行《いっ》て聞《きい》たこともある。その時に英学で一番|六《むず》かしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、只《ただ》スペルリングを学ぶのであるから、小供でも宜《よ》ければ漂流人でも構わぬ、爾《そ》う云う者を捜《さが》し廻《まわっ》ては学んで居ました。始めは先《ま》ず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を引《ひい》てソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。唯《ただ》その英文の語音《ごいん》を正しくするのに苦《くるし》んだが、是《こ》れも次第に緒《いとぐち》が開《ひら》けて来れば夫《そ》れはどの難渋でもなし、詰《つま》る処は最初私共が蘭学を棄《す》てゝ英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を棄てゝ仕舞《しま》い、数年《すねん》勉強の結果を空《むなし》うして生涯二度の艱難辛苦《かんなんしんく》と思いしは大間違《おおまちがい》の話で、実際を見れば蘭と云い英と云うも等しく横文にして、その文法も略《ほぼ》相《あい》同じければ、蘭書読む力は自《おのず》から英書にも適用して決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは一時《いちじ》の迷《まよい》であったと云うことを発明しました。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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