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ダイガクコトハジメ - 梅花女子大学

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参考文献・書籍

 

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学校略歴

  • 1872(明治5)年、澤山保羅、アメリカ留学、日本宣教を決意、名前を「保羅」(Paul)に改める、シカゴの神学校で学ぶ

  • 1873(明治6)年、岩倉遣欧使節団の欧米との条約改正の交渉の中で、キリスト教禁教解禁、日本でのキリスト教宣教活動が許可される

  • 1876(明治9)年澤山保羅、帰国、大阪の松村診療所にてアメリカン・ボードの宣教医アーサー・アダムズの通訳に、伝道・安息日学校を指導

  • 1877(明治10)年1月20日澤山保羅松村診療所を仮会堂に、12名の教会員により浪花公会(現・浪花教会)設立

  • 1878(明治11)年1月澤山保羅成瀬仁蔵ら浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)教会員の協力により、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校設立、「梅花」と名付ける、成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す

  • 1908(明治41)年、生徒数の増加に伴い、土佐堀から北野へ校舎移転

  • 1913(大正2)年、高等女学校令に基づき、梅花高等女学校発足、修業年限4年

  • 1913(大正2)年、梅花女学校を梅花女学校専門部に、修業年限2年、英文科・家政科設置

  • 1922(大正11)年、専門学校令に基づき、大阪で初めての女子専門学校として梅花女学校英文科・家政科を梅花女子専門学校へ改組、国文科新設、修業年限5年に、大阪における女子高等教育機関として大きく発展

  • 1926(大正15/昭和元)年、大幅な生徒数の増加に伴い、北野から豊中へ校舎移転

  • 1950(昭和25)年、​学制改革により梅花女性専門学校が梅花短期大学英語科として発足、1959(昭和34)年に家政科新設

  • 1964(昭和39)年、茨木市宿久庄に梅花女子大学設立、文学部・日本文学科・英米文学科設置

 

創立者

 

学校年表

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

 

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1870(明治3)年 澤山保羅(19歳)、洋学を学ぶため、神戸に赴く。神戸でアメリカン・ボードの牧師ダニエル・クロスビー・グリーンの自宅で英語を学ぶ。自宅で行われる礼拝や聖書研究に出席、キリスト教信仰に目覚める。

  • 1871(明治4)年 澤山保羅(20歳)、同郷・服部一三・名和道一のアメリカ留学に刺激を受け、アメリカ留学を決意。グリーン牧師、故郷イリノイ州のエバンストンの兄家に寄寓、働きながら勉強するよう手配。

  • 1871(明治4)) - 1873(明治6)年、岩倉遣欧使節団て岩倉具視らが欧米との条約改正にあたるも、日本がキリスト教の禁制と迫害を止めない限り、交渉が全く問題にされないことを知る。明治新政府にキリスト教解禁を上申。1873(明治6)年に禁制撤廃、日本でのキリスト教活動も許可されるが、信教の自由公認とは程遠いものであった。

  • 1872(明治5)年5月 澤山保羅(21歳)、片道の旅費を工面、アメリカへ渡る。渡米の際、キリスト教に改宗しないという誓約書を長州藩命により父・澤山源之丞に差し出す。サムエル・グリーン宅に身を寄せ、ノースウェスタン大学予科に聴講生として在籍。

  • 1872(明治5)年 澤山保羅(21歳)、アメリカの会衆派教会エバンストン第一組合教会にて、パッカード牧師より洗礼を受ける。

  • 1873(明治6)年 澤山保羅(22歳)、パブリック・スクールに通学。ボーテル家に身を寄せる。ボーテル家を訪ねたH・H・レビッド宣教師と出会う。レビッド宣教師より、伝道者となり、日本伝道に献身するよう熱心に勧められる。日本宣教を決意、パッカード牧師に師事し、聖書研究に取り組むことに。使徒パウロの世界に目が開かれ、使徒時代の精神とパウロ神学に傾倒。自分の新生を自覚、名前を馬之助から「保羅」(Paul)に改める。日本宣教のため、シカゴの神学校で学ぶ。

  • 1876(明治9)年8月 澤山保羅(25歳)、帰国。大阪府参事・内海忠勝とH・H・レビットに面会。内海忠勝より明治新政府への出仕を誘われ、迷う。レビット宣教師より初心に帰れと説得され、申し出を断る。

  • 1876(明治9)年 澤山保羅(25歳)、大阪の松村診療所にて、アメリカン・ボードの宣教医アーサー・アダムズの通訳に。訪れる人に伝道、安息日学校を指導。

  • 1877(明治10)年1月20日 澤山保羅(26歳)、松村診療所を仮会堂とし、12名の教会員により浪花公会(現・浪花教会)設立。会衆政治に則り、日本最初の按手礼を含む公会設立式が執り行われ、牧師に。同日、澤山保羅により綱島佳吉らの洗礼式が執り行われる。自身も診療所で働き、教会費自給による運営を試みる。この教会形成が、日本組合教会の基盤を作る。

  • 1877(明治10)年 澤山保羅(26歳)、妹・いまが吉敷で死去。葬儀のため、帰京。自身に心酔する成瀬仁蔵という青年の訪問を受ける。同道、共に神戸へ。

  • 1878(明治11)年1月 澤山保羅(27歳)成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校(現・梅花学園・梅花女子大学)設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。

  • 1878(明治11)年2月 澤山保羅(27歳)、浪花教会員が天満地区へ福音宣教をしたことをきっかけに、浪花教会設立。しかし、病床にあり、牧師辞職。代務者に牧会を依頼。

  • 1878(明治11)年 - 1882(明治15)年 成瀬仁蔵(21-25歳)澤山保羅がキリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校設立、教会信徒有志と共に協力。主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く。1882(明治15)年に卒業生をおくると、教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。

  • 1883(明治16)年 澤山保羅(32歳)梅花女学校校長に。陣頭指揮を執り、クリスチャンスクールとして存続を図る。

  • 1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月 成瀬仁蔵(33-37歳)、アメリカ留学。アンドーバー神学校・クラーク大学にて教育学や社会学・キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察。女子教育研究。

  • 1894(明治27)年 成瀬仁蔵(37歳)帰国後、梅花女学校第5代校長に。女子高等教育機関の設立に着手。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令

中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める​。

1899(明治32)年8月3日公布・8月4日施行 私立学校令

私立学校のみを対象とする最初の法令。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。

1899(明治32)年8月3日 文部省訓令第12号発令

文部省が宗教教育を禁じる法令を発令。キリスト教教育を続けると、各種学校の取り扱いとなり、上級学校への進学・徴兵猶予の特典を失うとされた。キリスト教私立学校の存立を脅かす。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1908(明治41)年、生徒数の増加に伴い、土佐堀から北野(現・大阪市北区豊崎3丁目)へ校舎移転。校舎はクリーム色の壁に赤い屋根で、当時としてはモダンな佇まいであった。

  • 1913(大正2)年、高等女学校令に基づき、梅花高等女学校発足。修業年限4年。梅花女学校を梅花女学校専門部に。修業年限2年、英文科・家政科設置。

  • 1922(大正11)年、専門学校令に基づき、大阪で初めての女子専門学校として、梅花女学校英文科・家政科を梅花女子専門学校へ改組。国文科新設。修業年限5年に、大阪における女子高等教育機関として大きく発展。

  • 1926(大正15/昭和元)年、大幅な生徒数の増加に伴い、北野から豊中(現・豊中市上野西1丁目)へ校舎移転。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 1950(昭和25)年、​学制改革により、梅花女子専門学校が梅花短期大学英語科として発足、1959(昭和34)年に家政科新設。

  • 1964(昭和39)年、茨木市宿久庄に梅花女子大学設立。文学部・日本文学科・英米文学科設置。

 

​梅花女子大学年表

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