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参考情報
参考文献・書籍
年表よりGoogleAI「Gemini」にて作成
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「自由の学風を求めて」
京都大学の大学”始まり”物語
序章:西からの胎動
日本の近代化が東京を中心に語られる時、もう一つの知の源流が西の地で力強く脈打ち始めていたことを見過ごすことはできません。京都大学の物語は、幕末の長崎にその端を発します。1866年、出島の地に設けられた長崎精得館分析究理所。ここでオランダ人理化学者クーンラート・ハラタマが教鞭を執った物理学と化学の実験・講義こそ、京都大学における自然科学研究の最も遠い源流でした。
明治維新の動乱の中、この理化学の灯を絶やすべきではないという強い意志が、新たな学舎の誕生を促します。後藤象二郎や小松帯刀らの建言により、新政府の教育機関は大阪の地に移設されることが決定。1869年、官立の化学専門教育機関「舎密局」が大阪城下に開校します。京都大学は、この日を創立の起点としています。
舎密局は大阪開成所、第四大学区第一番中学校と変遷を重ね、やがて1880年、官立大阪中学校の初代校長に折田彦市が就任したことで、その精神に一つの明確な方向性が与えられました。生徒の自主性を重んじ、規則で縛ることを嫌った折田彦市の教育は、後の第三高等学校、そして京都大学へと受け継がれる「自由の学風」の土壌を育んだのです。1886年、帝国大学への進学を担う第三高等中学校として京都の地への移転が決定した時、それは単なる校舎の移動ではなく、新しい知の拠点がその精神的故郷を得るための必然の旅路でした。
第一章:帝国大学の誕生と理念の確立
日清戦争後の国勢の伸長は、日本に第二の帝国大学の設立を急がせました。国家発展を支える人材育成、特に産業振興に不可欠な科学技術者の養成という国家的要請を背景に、1897年6月18日、京都帝国大学は創立されます。
設立に尽力した文部官僚、木下広次が初代総長に就任。まず理工科大学が置かれたことからも、新大学への期待が何であったかは明白でした。しかし、京都帝国大学は単なる技術者養成機関として歴史を歩むことを選びませんでした。その魂の源流には、折田彦市が第三高等学校(旧・第三高等中学校)で育んだ「無為にして化す」という自由闊達な精神が、確かに息づいていたのです。三高の校地と施設の多くを譲り受けて始まったこの大学は、物理的な資産と共に、その無形の精神をも継承しました。
やがて法科・医科、そして1906年に文科大学が設置されると、京都帝国大学は総合大学として独自の個性を開花させます。特に文科大学では、哲学者・西田幾多郎を中心に「京都学派」と呼ばれる独創的な思索の共同体が形成されました。西洋哲学を輸入・模倣するのではなく、東洋の思想的伝統の中からそれに匹敵する普遍的な哲学を打ち立てようとするその試みは、京都帝国大学が東京帝国大学とは異なる、独自の学問的気風と哲学を持つ拠点であることを内外に示したのです。
第二章:自由の試練と創造
大正デモクラシーの自由な空気は束の間、昭和に入り国家主義の波が教育界にも押し寄せると、京都帝国大学が育んできた「自由の学風」は、国家権力との厳しい対峙を迫られます。
その緊張が頂点に達したのが、1933年に発生した「滝川事件」でした。法学部の滝川幸辰教授の刑法理論が「危険思想」と見なされ、文部省が一方的に休職処分を発令。これに対し、大学側は教授会一致で処分に反発し、学問の自由と大学の自治の侵害であると強く抗議しました。法学部全教授が辞表を提出し、学生たちも教授陣を支持してストライキに突入します。結果として大学側の要求は通らず、多くの教員が大学を去るという痛ましい結末を迎えましたが、この事件は、権力に屈してでも学問の魂を売り渡すことを拒んだ京都大学の精神を、歴史に深く刻み付けることになりました。
戦後、学制改革を経て京都大学として新たな出発を切ったこの学問の府に、世界的な栄誉がもたらされます。1949年、理学部教授・湯川秀樹が、日本人として初のノーベル賞を受賞。それは、滝川事件で守り抜かれ、目先の成果に捉われず真理を探究する「基礎研究の重視」という学風が、見事に結実した瞬間でした。1960年代の大学紛争は、大学のあり方そのものを問い直す激しい嵐でしたが、それすらも「自由」を巡る絶えざる自己検証の過程であったと言えるかもしれません。
第三章:対話を根幹とする未来へ
幾多の試練と栄光を経て、京都大学はその歴史の中で一貫して守り続けてきたものがあります。それは、権威を鵜呑みにせず、本質を自らの力で探究する姿勢。そして、異なる意見を尊重し、徹底的な「対話」を通じて真理に近づこうとする学問的誠実さです。
2004年の国立大学法人化は、大学に新たな経営的自律を求めましたが、その核心にある理念は揺らぎませんでした。長崎の分析究理所に源流を発し、大阪の舎密局で産声を上げ、折田彦市の三高で自由の魂を育み、そして京都の地で幾多の試練を乗り越えてきた知の巨人。その歩みは、「自由の学風」を求め、守り、そして次代へと手渡していく、絶えざる挑戦の物語に他なりません。その精神は今なお、吉田の丘で、独創的な研究と多様な人材を育み続けています。
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