ダイガクコトハジメ - 三輪徳寛
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三輪徳寛
みわよしひろ
1859(安政6)年9月9日(旧暦・8月13日) - 1933(昭和8)年2月19日
第一高等中学校医学部教諭、千葉医学専門学校第3代校長、慶應義塾大学医学部講師、千葉医科大学初代校長
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1859(安政6)年9月9日(旧暦・8月13日) 三輪徳寛(1歳)、尾張国海西郡早尾村(現・愛知県愛西市早尾町)に三輪徳太郎(字大成)と母・みゑの末子として生まれる。代々医術を生業に、祖父・三輪景之進は産科、父・三輪徳太郎(字大成)は眼科医を営む。
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1867(慶応3)年 三輪徳寛(9歳)、堀内馬太郎に手習い、若山東庵に漢学を学ぶ。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1872(明治5)年 - 1873(明治6) 三輪徳寛(14-15歳)、医学を行うには西洋知識が必要になると諭され、名古屋の近代医学講習所入学。劣悪な学習環境から、翌年帰郷。勉学継続のため、再び名古屋の河原塾入塾。
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1874(明治7)年4月 三輪徳寛(16歳)、上京。本郷壱岐坂の壬申義塾入塾。寄宿舎より、塾に通う。
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1874(明治7)年11月 三輪徳寛(16歳)、東京外国語学校転入。
1875(明治8)年 - 1916(大正5)年 医術開業試験
1874(明治7)年の医制公布により、国家試験による医師の開業許可制が採用される。新規開業の医師に西洋医学の知識が必須となる。医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる。
医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる。これら予備校より、後に私立医学専門学校・私立医科大学が誕生する。
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1876(明治9)年12月 三輪徳寛(18歳)、東京大学医学部予科3年編入。
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1880(明治13)年 三輪徳寛(22歳)、東京大学医学部入学。眼科医を目指す。眼科担当教授が病に、外科担当ユリウス・スクリバ教授に師事することに。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1887(明治20)年 三輪徳寛(29歳)、帝国大学医学部卒業。帝国大学医学部大学院進学。ユリウス・スクリバ教授の下、外科専攻。唯一の給費生に選ばれ、月給5円の支給を受ける。
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1887(明治20)年9月、高等中学校令施行に伴い、県立千葉医学校は官立に移管。第一高等中学校医学部に。第一高等中学校への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、県立千葉医学校・長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定。
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1887(明治20)年12月 長尾精一(37歳)、第一高等中学校医学部医学部長・医学主事に。
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1888(明治21)年12月 三輪徳寛(30歳)、帝国大学医学部大学院卒業。ユリウス・スクリバ教授の助手に。
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1889(明治22)年5月 三輪徳寛(31歳)、第一高等中学校医学部教諭に。外科学を担当。あわせて、付属の県立千葉病院において外科担当。
1894(明治27)年6月25日 第一次高等学校令公布
1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(大阪から京都に移転)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。
専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。
但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。
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1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校を第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。
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1894(明治27)年、第一次高等学校令施行に伴い、第一高等中学校医学部は第一高等学校医学部に。
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1897(明治30)年 - 1899(明治32) 三輪徳寛(39-41歳)、官費留学生が帝国大学教授だけでなく、高等中学校医学部教授にも認められることに。第一回官費留学生として、木村孝蔵・田代正と共にドイツ留学。留学先にて、呉秀三・佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成らと行動を共にすることも。
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1904(明治37)年 三輪徳寛(46歳)、日露戦争、千葉医学専門学校校長が赤十字社支部看護婦養成所所長を兼ねる。日露戦争戦傷者を収容した東京予備病院千駄ヶ谷分院および戸山ヶ原分院での治療を担当。派遣看護婦の管理督励。
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1906(明治39)年 三輪徳寛(48歳)、日露戦争時の働きにより、勲四等瑞宝章を受章。赤十字社より、銀杯を贈られる。
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1909(明治42)年6月 三輪徳寛(51歳)、維新以降の急激な社会変革の犠牲となった貧困層の救済に立ちあがる。貧困患者救済のための委員会を立ち上げ、委員長就任。
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1913(大正2)年2月 三輪徳寛(55歳)、全国各地の病院・赤十字看護婦養成所の視察見学開始。入院患者数の増加に対応するため、千葉県の了解を得て県債発行。資金確保、病院増改築を竣工。
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1914(大正3)年12月18日 三輪徳寛(56歳)、千葉医学専門学校第3代校長に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
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1920(大正9)年4月、慶應義塾大学、大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可。文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に。予科・大学院を付設。
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1920(大正9)年 北里柴三郎(68歳)、慶應義塾大学が早稲田大学と共に日本初の私立大学として認可される。慶應義塾大学医学部発足。医学部学部長・慶應医学会会長に。慶應義塾大学病院開院。院長に。
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1920(大正9)年 三輪徳寛(62歳)、慶應義塾大学医学部講師を兼務。
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1922(大正11)年3月、県立千葉病院、千葉医学専門学校付属医院に。看護婦講習所・産婆講習所を設置。
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1931(昭和6)年12月 三輪徳寛(73歳)、財団法人千葉医科大学付属医院同人会設立。
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1933(昭和8)年2月19日 三輪徳寛(75歳)、死去。享年75歳。
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